流薔園

「物事を遠くへ押しやる時、一切はロマン的になる」(シュレーゲル)

ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力―〈アブジェクシオン〉試論』

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「構造」の概念が世界の知的状況を沸騰させていたなか、静態的な構造主義的テクスト理論に対し意味生成の動性を提示しテクスト理論・記号論に新境地を開き、現在も思想シーンの熱源であり続けている思想家ジュリア・クリステヴァ。今回取り上げる『恐怖の権力』はクリステヴァの九冊目の著作であると共に、クリステヴァの理論的進展を画期する重要な著作である。

クリステヴァの仕事は『記号の解体学――セメイオチケ』(1969)に代表される第一期、『詩的言語の革命』(1974)に代表される第二期、そして本書、『恐怖の権力』を嚆矢として展開されている第三期の三つの時期に整理することができる。それぞれの時期を、提起されている鍵概念を元にして特徴付けるならば、まずは生産物としてのテクスト概念から生産性そのものとしてのテクスト概念への転換、次いでル・セミオティック(原記号態)の噴出によるル・サンボリック(記号象徴態)の破砕としての詩的言語論、最後にアブジェクト(負性、おぞましさ)をアブジェクシオン(棄却)することによる主体形成の理論、となる。そして、これらのクリステヴァの各時期の思索は相互に密接に関係しており、ここで扱う『恐怖の権力』を正確に理解するためには、クリステヴァの歩みを概観する必要がある。まずはクリステヴァの思惟の軌跡を時間軸に沿って辿っていくことを本稿の導入としたいと思う。

ジュリア・クリステヴァ1941年にブルガリアで生まれた。富裕な両親のもと、幼少期からフランス語教育とフランス文化の薫陶を受ける。当初は自然科学を志すが、共産党員の子弟でなければその道での大成は難しいと知り文学を専攻。1965年にはフランス・パリに留学し、社会科学高等研究院に設けられていた、マルクス主義文芸批評で知られるリュシアン・ゴルドマンと構造主義の代表的理論家であるロラン・バルトのゼミナールを受講。ゴルドマンから高い評価を受けていたものの、結局クリステヴァはバルトに傾倒していく。1966年にはバルトの縁でポスト・ヌーヴォーロマンの旗手であるフィリップ・ソレルスと出会い、ソレルスの主宰するテル・ケル誌に参加。また、バルトのゼミナールで当時フランスではよく知られていなかったロシア・フォルマリズムミハイル・バフチンの文学理論を紹介し、注目される。そしてテル・ケル誌に発表した論稿を纏めた『セメイオチケ』を1969年に刊行し、フランスの思想界に鮮烈に登場する。

セメイオチケ』においては意味生成性、ジェノ=テクスト/フェノ=テクスト、間テクスト性(相互テクスト性)というクリステヴァ初期の思考の核心となる概念が提示されている。続いてはこれらの概念を説明していきたい。まずは「意味生成性」について取り上げよう。

記号学は従来、言語を分析する際に、言語の生成過程に目を向けず生産物としての意味と意味の交換である伝達(コミュニケーション)のみを扱ってきた。クリステヴァは意味生成性という概念を提示することで、意味の生成過程全体に目を向ける。意味生成性とは、意味の胚芽状態から、伝達できる意味の成立へと至る、意味生産の全過程の働きのことである。この働きは、「差異化」・「成層化」・「対決」に分類される。差異化とは、差異によって構成される記号を成立させる重要な契機であり、これにより記号体系が成立する。成層化とは、そのようにして成立した記号体系が意味の表層を成立させる過程を意味する。対決とは、意味と意味ならざるものが併存している緊張状態を指している。生産物としての意味の次元だけを対象としてきた既存の記号学・記号論(セミオティックス)に対して、クリステヴァは意味の生成過程の分析を領野とする「記号分析学」を提唱する。生産の結果成立した言語の体系の構造についてだけを課題としていた構造主義言語学構造主義テクスト理論が静態的であるのに対し、クリステヴァの生成の過程を射程に入れたテクスト学はきわめて動的でダイナミックなテクストの誕生を捉えることを目的としている。

続いては「ジェノ=テクスト/フェノ=テクスト」の説明に入る。生産性としてのテクストを分析する記号分析学は、テクストにジェノ=テクストとフェノ=テクストの二側面を見出す。フェノ=テクストとは、フェノメーヌつまり現象としてのテクストであり、出来上がった生産物として捉えられるテクストのことである。ジェノ=テクストとはジェネラシオンつまり生成としてのテクストであり、生産性ないし生産活動として捉えられたテクストである。あらゆるテクストはこの2側面を有する。フェノテクストが意味作用・伝達機能というテクスト表層の次元で展開するのに対して、ジェノ=テクストとは意味作用の深層での生産の局面で展開するテクストなのだ。フェノ=テクストとジェノ=テクストは相互的に機能していて、記号分析学はこのふたつのテクストの関係と、フェノ=テクストに現われた深層のジェノ=テクストの分析を主たる役割とする。

そして「間テクスト性(相互テクスト性)」であるが、この間テクスト性とは、元はクリステヴァミハイル・バフチンから継承した概念である。あらゆるテクストは様々な引用のモザイクとして構成されていて、全てのテクストは他のテクストの吸収・変形であるとする見解であり、テクストは孤立して存在するのではなく、過去に書かれたテクスト、将来書かれるテクストと関係し合っており、テクストは社会・文化環境・歴史といった外部へと開かれた存在として理解される。テクスト空間は独語(モノローグ)つまり単一論理が支配する時空ではなく、対話(ダイアローグ)する複数の論理によって構成された時空として捉え直される。テクストは複数のテクストの巡り会う場として展開し、いくつもの社会・歴史・文化へと開示され、多くの対話(ダイアローグ)が展開されることになる。このようなテクストの喧噪の中でバフチンが提唱する「多声性(ポリフォニー)」が生まれていく。

これらの概念群が示唆するのは、「生産物としてのテクストから生産性としてのテクストへ」という転換に他ならない。「間テクスト性」が提示する「テクストとは他のテクストのパッチワークである」という前提は、テクストの生誕を単一的な論理に支配された無からの創造ではなく、テクストの「転生」、ひとつのテクストが砕け散り、再び他のテクストの磁場に収斂され、散り散りになった多くのテクストとともに新たなテクストを形成するという「転生」の過程であることを指している。この「転生」によって、テクストは「生まれると同時に生む」テクストであれる。そして、この性質こそが、「意味生成性」という「テクストの生産的な性質」なのであり、「ジェノテクストの性質」でもあるのだ。

こうして、従来のテクスト理論を刷新するような鮮烈な記号論を提示したクリステヴァだったのだが、『詩的言語の革命』(1974)によって新たな理論的展開を迎えることになる。クリステヴァ70年代に入って精神分析理論に傾倒し、ジャック・ラカンのゼミナールに参加するようになる。そのような精神分析への熱心な取り組みが結実したのが『詩的言語の革命』であり、無意識理論を取り込んだ記号論の再構築が目指された。この後、クリステヴァは精神分析家の資格を取得し、著作においても精神分析の影響が色濃くなっていく。「言語学から精神分析へ」というクリステヴァ思想における重要な転回の画期としてこの著作を捉えることができる。

クリステヴァが『詩的言語の革命』で提示した重要な概念に「ル・セミオティック(原記号態)/ル・サンボリック(記号象徴態)」というものがある。次はこのル・セミオティック/ル・サンボリックという概念について見ていきたいと思う。

現代記号学には、大別してふたつの潮流があった。ひとつは記号と記号が表象する事物との間の関係性を問い直す潮流であった。ソシュールは記号と記号が表象する事物との間には必然的な関係はない、それは人間の理性が仮構した恣意的な関係に過ぎないとしたのであるが、それを揺るがす見解がフロイトの無意識についての理論であった。フロイトの分析した夢においては、欲動エネルギーと欲動エネルギーを表象する夢テクストの間に特有の法則性を介し明らかな有縁性が認められたためである。意識-理性が表象を恣意的に統御するという見解に反し、根源的な関係によって事物と記号(表象)とが結ばれていることをフロイト理論は示唆していた。第二の潮流が記号体系を従来の殻を破り、発信者-受信者の関係を含んだ重層的な布置に拡張しようというパンヴェニストらの試みであった。記号だけで成立し閉塞していた表徴体系を、人間関係の次元にまで拡張しようというのがこの試みであった。そして、クリステヴァはこの二つの潮流は、同じ意味生成作用の二つの様態を述べたものであるという。第一の潮流において現われている、意味生成作用の肉体と結びつく領域を「ル・セミオティック(原記号態)」と言い、第二の潮流において現われている従来の表徴体系を超えて社会・歴史と結びつく領域が「ル・サンボリック(記号象徴態)」と呼ばれる。テクストは生み、かつ生まれるという両価的な属性を持ち合わせているという概念はジェノ=テクスト/フェノ=テクストで提示された。ル・セミオティック/ル・サンボリックの概念もジェノテクスト/フェノ=テクストを敷衍した理論であり、身体とコミットするル・セミオティックは生成を、社会と接続されるル・サンボリックは生成による展開の拡がりを示唆している。これらは、従来の「生まれ-生み出す」という関係のみならず、記号体系一般とそれに接続する異質な外部(ここでは肉体/社会)も含めて言語活動・記号実践を包括的に捉えることを目指して構築された概念である。

『詩的言語の革命』の功績のひとつに、「語る主体」の問い直しという問題が挙げられる。これまで、言語学において「主体」の問題は閑却されてきた。フェルディナン・ド・ソシュールが表象と事物との関係を「理性による恣意的仮構」として規定して以来、理性-主体は自明の前提としてみなされ、その詳細が論じられることはなかった。また、構造主義言語学が隆盛するようになってからは、従来の閉鎖的主体概念への反動から主体を超脱した「構造」の概念が君臨するようになり、主体はまたもや閑却に付されてしまったのである。クリステヴァはこの状況に対し、過去にテクストの静態的構造のみを議題としてきた言語学を、意味の生成の現場に視線を向け転回をもたらしたように、完成された主体のみならず、「主体の生成」の現場へと遡行することで回答を提示しようとする。

クリステヴァは、プラトンの『ティマイオス』から主体生成の原理へと接近していく。プラトンは、『ティマイオス』において生成のシステムを次のように定義している。1生成するもの2生成する場3生成するものが、自身のモデルとするもの――生成する万物の子宮あるいは揺籃として2の「生成する場」は捉えられており、生成された万物が宇宙の各所に配分されたのちに万物に秩序を賦与するのが3の「生成するものが、自身のモデル」とするものである。2の「生成する場」は秩序付けられた宇宙の出現に先行する、その基盤を準備するものであり、3の宇宙全体の秩序化の以前に働く権能である。そして、クリステヴァ2の「生成する場」、プラトンが「コーラ」と呼ぶ概念を「母」に割り振り、1の「生成するもの」に「子」、3の「生成するものが自身のモデルとするもの」すなわち宇宙を規律する規範に「父」の概念をそれぞれ仮託する。そして、クリステヴァ2の「生成する場」をル・セミオティック、3の「生成するものが、自身のモデルにするもの」をル・サンボリックであると述べる。肉体と結びつき、いまだ整序化に至らぬ混沌にあるル・セミオティックの領域は紛れもない「生成」の領域であり、成長と法(=「父」)への帰順と秩序の体現を意味する3は社会そして歴史へと接続する局面を表すル・サンボリックで表象される。ル・セミオティックとは「生産物を生み出す生産そのものの秩序」であり、ル・サンボリックは「生産物の秩序」である、という要約ができるだろう、そしてクリステヴァはル・サンボリックの側面に偏向していた西欧思想に対して、母なるもの、ル・セミオティックの復権を図る。

こうして、クリステヴァは「生産物の秩序」そして「生産性の秩序」を以前のテクストの次元を遙かに飛び越えて、壮大なイメージのもとに素描してみせた。クリステヴァはこの概念を基礎にさらに「生成」の場へと迫っていく。ここでクリステヴァは、フロイトが研究の重要性を説きながらついに観察を深めることがなかった、「前エディプス期」という問題を足がかりにしようとする。フロイトの主体発達論では「エディプス期」とは父の登場を契機に父が体現する法に服するようになり、超自我(フロイト理論における、人格の規範的な側面をいう)が形成されるようになるのだが、それに対して前エディプス期とは文字通り、父が登場する以前の母子二者関係からなる発達期を言う。ここではまだ子は主体以前の状態であり、母の身体に融合している状態である。この状態から、母を対象化し、自我を確立するに至るプロセスにクリステヴァは主体形成の重要な瞬間を見出そうとする。そして、この枠組みは『恐怖の権力』において結実することになる。

この、主体形成の途上で起こる現象に「棄却」がある。クリステヴァの『恐怖の権力』の主題のモティーフになったこの「棄却」という事例はフロイトによって報告されている。フロイトが観察していた一歳六ヶ月の男児は数時間母親が傍にいなくても堪えられるようになっていたが、やがて奇妙な癖を見せるようになる。手にするものを何でも遠くへ放り投げ、「オーオーオー」と叫ぶのである。これは「Fort(いない)」と言っているのだと判断された。ある日、糸巻きを手に持った男児は、それを寝台の陰に放り投げ、それが見えなくなるとオーオーオー(Fort…Fort…Fort…=「いない、いない、いない」)と叫び、次に紐を引っ張って糸巻きを取り出し、ダー(Da=「居た」)と言ったという。これをフロイトは「消滅と再会の再現」の遊戯であると言う。クリステヴァは、この糸巻きの放擲行為に主体形成途上における「棄却」の欲望の発現を見る。

1970年代後半、そして1980年代に入ってからのクリステヴァの思考において、この「棄却」なる概念は重要な意義をもつことになる。癒着状態の「母」をいかに「棄却」し自我を確立するか。「棄却」することで主体を形成していくプロセスの実像とはどのようなものなのか。そしてその主題は、再びテクスト理論にも流入していく。論文集『ポリローグ』(1977)では、上の事例を取り上げ、この幼児の母親の代わりに糸巻きを投擲することで、不在の母親を再現しているという行為が、母親を「代理表象」とするものだとした。これまで傍に居た母親を棄却され、排除されることで記号が立ち現れる。このプロセスは前記号的な流動状態(ル・セミオティック)から、静的な表象秩序(ル・サンボリック)への移行として捉えられるという。そして、これは母親からの子の分離と自我・主体の確立でもある。母・子の分離はこうしてテクスト(表徴体系)の生誕のプロセスとしても捉えられるのだ。

そして、「棄却」という主題は『恐怖の権力』(1980)でクリステヴァに新しい理論的局面を切り開かせることになる。それでは、予想外に長くなってしまった前説を終え、本題であるところの『恐怖の権力』について述べていきたい。

『恐怖の権力』で試みられるのは、父が登場する以前の母子の二者関係の究明である。いわゆる「前エディプス期」における母子関係では、母―子の分離は行なわれておらず、一体となって融合し、共生している。しかし、同時に、そこには分離へと向けた歩みが開始されている。この原初状態を解明するために、クリステヴァは「棄却(アブジェクシオン)」というメカニズムを導入する。前エディプス期の母子の関係は、母が誘発する「棄却(アブジェクシオン)」によって、母子の融合-共生状態から母子分離へと移行するとクリステヴァは考える。それでは、この棄却(アブジェクシオン)というメカニズムについて説明していこう。アブジェクシオン(棄却)とは、いまだ対象とならずに一体化している母という前-対象が、融合の快楽で魅惑しながら、しかし同時に嫌悪を誘発するアブジェクト(おぞましいもの)となってアブジェクシオン(棄却)されることを意味している。

通常のフランス語の語法では、abjectとは「おぞましい」という形容詞、abjectionとはabjectの名詞形として「おぞましさ」という意味をもつ。一方、この言葉の語源を辿ると、abjectionの元になったラテン語のabjectioabは空間的疎隔を表し、jectioは遠くへと放り投げる行為を表している。Abjectionの根源的な意味は、「分離すべく=投げ出されたもの」と解される。また、フランス語で「対象」を意味するobjetabjectを合成した造語abjetクリステヴァは用いているが、これは「いまだ対象となっていない」という意味合いをもつ。abjet,abject,abjectionといった言葉が織り上げる意味は、「いまだ対象となっていない、分離すべき、おぞましい前-対象」である。そして、これは他ならない子と融合状態にある「母」へと繋がっていく言葉たちであり、生成の現場を飛び交う言葉たちである。いまだ主体ならざる前-主体の子が、いまだ対象ならざる前-対象の母を棄却する働き、それこそが棄却作用(アブジェクシオン)なのだ。融合状態の甘美さとおぞましさのあいだを往還しながら、子である前-主体は自我を確立していく、母を「棄却(アブジェクシオン)」しながら。

続いて、クリステヴァはこの棄却作用(アブジェクシオン)が投げかけた波紋を文化史・宗教史の中に探っていく。歴史の様々な場面における、禁忌(タブー)や「穢れ」の概念といった「おぞましきもの」――魅了されながらも目を背けずにはいられない、そんな「おぞましきもの」の根底にある原理をクリステヴァは解体していく。

まず、扱われるのは近親相姦の禁忌(タブー)である。フロイトは『トーテムとタブー』において、近親相姦の禁忌と殺人の禁忌を自身の理論を用い説明している。『トーテムとタブー』によると、原初の社会では女性を独占し、生まれた子供を次々と追い払ってしまう暴力的で嫉妬深い父親がいた。この時に、兄弟たちは、力を合わせて父親を殺害し、新たな共同体を立ち上げようとする。けれども、このままでは女性を取り合い再び争いが起こる可能性があるので、兄弟達は近親相姦の禁忌を定め、殺害された父をトーテムとして祭祀し、殺人を戒めた。これはオイディプス的構造に準拠し、法としての父の出現を禁忌(タブー)の創始であるとする。一方で、クリステヴァは「父」が出現する以前の前オイディプス期にまで遡行し、近親相姦タブーは母と子の「アブジェクション」、つまり距離付けであると説明する。

「おぞましきもの」の棄却(アブジェクシオン)が記号を出現させ、表徴の体系の端緒となることは「糸巻きを投げる子とも」のくだりで説明した。古代社会で生じたのも同様の現象であった。おぞましきもの、具体的に言うと「母」にまつわる事物を棄却(アブジェクシオン)することで、最初のコード化が社会でなされる。そして、それは供儀・祭礼という形で定式化され、宗教―文化―社会制度へと進展していく。この穢れと聖性のコード化は、まず近親相姦を初めとする禁忌(タブー)から始まることになる。行きすぎた母-子の融合状態を想起させる近親相姦のタブー、経血のタブー、出産のタブー、母を想起させる食物(ユダヤ教における子ヤギのミルク)のタブー…母なるものの棄却(アブジェクシオン)は禁忌(タブー)の形をとって様々に展開していく。

しかし、タブーはある時期を迎えると、ある転回を見せることになる。穢れはこれまで、外部の事柄であった。それが、キリスト教の登場以後、穢れは内面化される。すなわち、人間そのものが穢れているとされる。原罪の観念がそれだ。罪を浄化するには、つまり穢れを払うためにはこれまでのように遠ざけるといった単純な方法ではなく、精神的な告解や内省が必要とされる。アブジェクシオンの精神化という現象がここで生じる。そして、アブジェクシオンの内面化という現象の延長で、アルトーといった現代文学が取り扱われ、その作品世界内の「アブジェクシオン」が検討されていくのであるが、ここで現代におけるアブジェクシオンの最大の演出者にして最大の犠牲者である作家、フェルディナン・セリーヌの問題が浮かび上がってくる。

フェルディナン・セリーヌは、自身をモデルとした青年バルダミュを主人公とした小説『夜の果てへの旅』で衝撃的なデビューを飾った。俗語を露悪的に用い、都会人の殺伐とした感情を摘出してみせたこの作品は、そのペシミスティックでドラスティックな作風で文学の負性、「おぞましさ」を体現してみせた。続いて同じく自伝的作品である『なしくずしの死』では、主人公フェルディナンの少年期が荒んだ文体で自棄っぱちなのではないかと思えるほどあからさまに暴露されている。そして、彼の人生に投げかけられたもっとも暗い影、反ユダヤ主義への傾倒とナチスへの礼賛を示す、『死体派』『虫けらどもをひねりつぶせ』などの政治的パンフレットの数々が彼の文学の「おぞましさ」の骨頂を露呈している。

クリステヴァは、セリーヌの文学と反ユダヤ主義は切り離せないと言う。なぜなら彼にとって、「ユダヤ人」とは棄却すべき「母」であるからだ。ファシズムに親和性を示しながら(ヴィシー政府に協力すらした)ブランショが後年に至ってレヴィナスやショーレムといったユダヤ思想に傾倒したように、セリーヌにとって「ユダヤ人」は魅了されながらもおぞましさに目を背けてしまうような、「棄却」しなければならない「母」であったからだ。セリーヌの作品にぶちまけられた「おぞましさ」はユダヤ人というコードがなければ理解しえない。彼はユダヤ人を排除しながら、彼らに自らのイメージを託したのだ。

第二に、セリーヌが「医師」であったことがセリーヌの文学を解読するコードになる。医師という職業が死と腐敗と汚辱に満ちた職業であるだけではない、彼が研究していた「衛生学」にクリステヴァは着目する。穢れを払い、浄化するという衛生学の根本的な機能が、彼自身の文学とのアンビバレントな関係とともに、倒錯した棄却(アブジェクシオン)へとセリーヌを駆り立てたのだ。聖別と汚濁の境界で、セリーヌのテクストはアブジェクト(おぞましきもの)を引き離しながら抱き寄せてみせた。おぞましきものとの融合と分離が生んだ最も戦慄すべきケースとしてセリーヌは位置付けられている。セリーヌのテクストは何処までもおぞましいにも関わらずわれわれを魅了するような「アブジェクシオン」なのである。

「棄却(アブジェクシオン)」こそが、表題の「恐怖の権力」としてわれわれを規定してきた。そして、その「恐怖の権力」がわれわれに突きつけた最大の問いが、『恐怖の権力』の三分の一もの分量を使って論じられたフェルディナン・セリーヌなのではないだろうか。おぞましさと魅惑、融合と分離との間の混沌から、われわれは無事に生還できるだろうか?

 

この前は「放蕩」の思想家としてバタイユを取り上げた。今回はバタイユと対をなすように、「生産」の思想家としてクリステヴァについて書いてみたが、この対称はなかなかに面白いのではないだろうか。