流薔園

「物事を遠くへ押しやる時、一切はロマン的になる」(シュレーゲル)

モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』

 

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モーリス・ブランショは『来るべき書物』や『文学空間』において、日常からの欠落/死の空間として文学が展開する空間を定義し、日常的生から乖離した本質を蔵した「文学空間」への沈潜を試みた。ブランショの「文学」とは我々を日常空間での流離・埋没から引き離し、生の時空を壊乱することで読み手/書き手の消滅と純粋なテクストの示現をもたらし、「私」という主体のままでは辿り着くことのできない境位への到達を可能にするものであった。しかしブランショの主題は、「死」と「非人称」の充満する異界としての文学空間から拡がり、新たな地点を目指し始める。

 後期ブランショの『彼方への一歩』『災厄のエクリチュール』で見られる変化は「文学」の次元から「生」の次元への変化と言える。この展開は同時に、「コミュニケーション」の次元への変化であるとも言える。そして、この文学から生へ、コミュニケーションへのブランショの思想圏の拡がりは他者との共存・連帯という問題へとブランショを向かわせることになる。そして生まれ落ちたのが「共に在ること」を巡るこの書物、『明かしえぬ共同体』なのだ。

 JL・ナンシーの『無為の共同体』に触発され執筆された本書は、1930年代のバタイユの「無頭人(アセファル)」を代表とする共同体の模索、レヴィナスの他者論、デュラスの恋愛文学を織り交ぜ、「685月」の意義に降り立ち、多様な共同体の輪郭をなぞり、それらの栄光と破局と、そして未来とを照射している。それでは、さっそくブランショの共同体への眼差しを確かめてゆこう。

 この書物の前半部はバタイユの内的経験への遡行と共同体の探求について扱われ、共同体へとわれわれを駆り立てるものの正体が最初の問いとして設定されている。ブランショはナンシーの『無為の共同体』 を引用しつつ、西欧特有の「個」の概念が原因である、と述べる。「個の集積」としての近代社会を基礎付けるイデオロギーは、この社会をかつて構成していた 人間たちは、それまで属していた共同体を解体し、それによって解放され自由を確立した個人の結合した、というものだが、このイデオロギーは「自由な個人」 という正のファンタズムと同時に、「共同体の喪失」という負のファンタズムを生み出す。近代社会は「個の絶対的分離」を基礎としているが、これは単独では 成立しえず、二つの正負のファンタズムへと分裂してしまうのだ。これにより生じた「共同体の喪失」というファンタズムが共同性への傾斜をもたらす。

 この分裂を癒やすため提示されたのが二つの個と全体の弁証法であった。第一に個と個の紐帯を再生させることで喪失された有機的全体性を回復させる試みであり、第二が個を高められた全体にまで昇華させ統合するというヘーゲル的な対応である。第一の弁証法は共同体を近代の到来によって喪失された家郷のイメージで捉え、第二の弁証法において個の止揚によって具現する全体国家として把握される。

 しかし、ブランショ-ナンシーが眼差しを向ける共同体は、このような構造体ではない。ブランショ-ナンシーが見つめる共同体は弁証法的な、あるいは垂直的な歴史構造の「外部」に所在するものである。 ブランショ-ナンシーが構想する共同性の契機とは、「死」である。

 人間が完全に自足することは不可能である。なぜなら、自足するためには死によって自身の生の事実性へと自身を送り返さなければならないが、人間は 自身の死を我が物とすることができない。人間の死は自足した「自己完結」として存在することが出来ず、死とは他者が観測することによってしか存在しえな い。しかし、ではブランショ-ナンシーの視座においては共同体が自足できない個体の補完の組織体として想定されているかというと、そうではない。

 他者の死を受け取ることは出来ても、それを私は経験することはできない。この非対称性の中に共同性の本質が蔵されている。共同性とは、補完でも自足でもなく、「差異」として示現する。そして、自足と目的とをそぎ落とされた共同体は、外部へと開示された無為な共同体である。

 続いて、バタイユの内的経験と共同体との相関が主題となる。バタイユの言う「共同体」は内的経験に密接に繋がっている。バタイユは 内的経験は共同体無しにはあり得ないとし、内的経験と共同体との関係を神秘体験の経験を目指す神秘家と、彼らにその基盤を提供していた信仰コミュニティに 擬する。しかし、「内的経験」が権威の廃絶を目指すものであるとすれば、コミュニティを支える神は最初に廃棄されるべきであるし、信仰共同体が自然に権威 を形成するものであるとするならば、権威の廃絶を目指す内的経験と共同体は対立する事象となる筈である。

 ここで、バタイユはたとえ内的経験がいかなる権威も廃絶しうるものであるとしても、その「体験」が体験として成立し、意味を持つためには体験は「権威」にならなくてはならないと述べる。

 バタイユにとって、権威とは具体的内実をもたない。権威とは「場所」に過ぎない。「権威」とは共同体の連帯から零れざるをえない「絶対的外部」を含意している。バタイユが 「聖社会学」を掲げ、近代に出現した群衆を凝集させる技術の解析を目指した経緯を鑑みるに、これは当然の帰結でもあった。閉塞的な自足/目的の共同体を抜 け出し、共同体を成立させるために共同体から孤立せざるをえない「権威」の場を占め、その権威のもつ逆光によって共同体を照射しようとバタイユは試みたのである。自足/目的の共同性から外部を目指す思考は、バタイユにおいては崇高と超越性への接近という思考に、ブランショ-ナンシーにおいてはそうした共同体からの異分子・落伍者という視座の構築という発想に結実したのである。

 後半のテクストでは、デュラスの描く倒錯した愛の世界を巡ってブランショの 思考は展開される。此処での愛に関する省察と共同体を巡る省察は分かち難く結びついている。 愛とは共同体の命脈を繫ぐ為に紐帯の強化に供されるわけではない。愛と共同性とは等位であり、制度と幻想の遙か手前にある共同体と愛とは必然的に出逢う。 しかし、その愛も共同体の疼痛を癒やすわけでも、欠落を埋めるわけでもない。その愛も止揚されることのない差異を晒すことでしかないような「愛」である。合一しながらも絶対的に隔絶された男女で構成された共同体は、表題通り「明かしえぬ共同体」なのだ。

 「無名の大衆の現前」から、「恋人たちの世界の現前」に至るまで、ブランショの「社会」なるものを見つめる透徹とした視線は、個の総和としての社会モデルも、個の超越をうたい帰一の陶酔という共同幻想を共有する社会モデルも退ける。それらは抽象に過ぎないからだ。ブランショが思い浮かべる人々は、超越を喪い、剝き出しの生々しさに晒されたような関係である。それらはいかなる権力の聖別/組織化も拒む「二人」なのである。不可能としての非対称な他者性という主題は、E・レヴィナスに傾倒したブランショの「他者」観を表している。

    また、本書は「共同体」と「共産主義」とを並置するという目を引くような文章から始まっている。共同体・共有・コミュニケーションといった同根の言葉たちの関係には共同体の本質が溶け込んでいる。共に労働することの描き出すイメージに共同体の姿はすっぽりと填まる。

 では、「共に働くこと」が共同性にもたらした変転とは何なのだろうか。マルクス主義が歴史の構造を資本主義の自己矛盾の展開として捉え、近代を資本主義の矛盾の究極化と必然的解消の過程として把握し近代の推進を戦略として掲げ、同時に 共同体は近代によって失効してしまい、資本主義によって解体されてしまった諸価値(祖国・大地・死者・家族)の拠りどころとして、反近代主義・ファシズム運動の精神的基盤となった。この二つのイデオロギーは双方とも資本主義を否認するが、一方が近代に立脚し、他方が近代を憎悪しているという点で激しく対立 し、「共有制」と「共同体」という二つの語の断絶を決定的にした。しかし、国家という上位の観念への統合という点ではどちらのイデオロギーも同質の機能を 果たし、「全体主義」という名の下に包括される。

 ブランショは全体主義の前で、他の思想家のように医者を思わせる振る舞いで仰々しく診断を下してみせたりはしない。ブランショが青年期にシャルル・モーラスの門弟であり、ラディカルなナショナリスト・反近代主義者であったことはよく知られているが、ブランショは罪人の側に立ち、罪人として思考することを試みる。ファシズムという災厄を、喧噪を身に纏いながらひとりで歩くことしか知らないこの余りに孤独な災厄を「生きて」、そして感受することを試みる。

 ブランショのあらゆるドグマに回収されない共同体・コミュニケーションの原質を見出すという意図は果たして成功したのだろうか。

 

 

莫大な課題をわれわれに突きつけ瓦解したナチズム/ファシズム。それらの問題は決してもう人の棲まない廃墟を解体するような手つきで処理されるべきではない、どこまでも現在的な問題として対峙されるべきである。そして、ファシズムへとどう接近すべきかという問題を考えるとき、私はそれをここで取り上げたブランショのように直接的に「経験すべき」だと思うのだ。彼らを突き動かした暗い血の沸騰をわれわれも「経験」しようとしなければならないと思うのだ。アドルノブロッホFLノイマン等のファシズム論よりも、ファシズムの境界で佇んでいたブランショファシズムが生み落とされたあの時代の思考の主導者であるシュペングラー、ユンガーあるいはファシズムの渦中に投企したコラボラトゥールの作家たちからファシズムの真理に接近したいと私は思う。しかし、それは紛れもなく危険を伴う作業、ファシズムへと回収されかねない行為であるのだが。