流薔園

「物事を遠くへ押しやる時、一切はロマン的になる」(シュレーゲル)

ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』

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 冷戦構造の内破、テロリズムの拡散、憎悪の連鎖。国家・地域間の障壁が急速に失効し、市場・情報・カルチャーを中心としてグローバル化が加速する現代社会においては、技術革新と空間構造の変質によって「戦闘概念自体の融解」と「暴力の世界化」が発生する。同時多発テロとそれに呼応する米国主導の対テロ戦争、一連の中東革命といった暴力のうねりは、われわれの暴力への視角と思考とを根底から揺るがせた。しかし、この暴力の世界化という現象は現代的展開であると同時に極めて「古代的展開」であるとルネ・ジラールは述べる。彼は新著である『スキャンダルの到来を媒介する者』において、この暴力の終焉の見えない循環に対し「暴力はいまや火事、あるいは疫病の伝播を思い起こさせる(中略)暴力がとても古く、いささか神秘的な形態を取り戻したとでもいうように、壮大な神話的イメージが再び出現してくる」という分析を下す。動員体制や技術によって理論化/精緻化された近代的戦争は解体され、替わって台頭したのは疫病を彷彿とさせるスタイルで自律/増殖する個へと還された剝き出しの暴力、古代的で純粋な暴力であったというのだ。いずれにせよ、既存のフォーマッドによる現代的あるいは古代的暴力への応答は臨界に達しつつある。暴力について最も問いが発されている現代においてわれわれが必要としているのは、何よりも暴力の真理へと接近することなのだ。そして、本書『暴力と聖なるもの』で展開されているのは暴力の原初と暴力の現在性を往還するという営為、「暴力」の本質の探究とそれを基礎とした人間/社会科学建設の試みなのであり、本書は世界に氾濫する異形の暴力に対する有効な応答となり得ている。

 ジラールはアメリカを中心に活動するフランス人の思想家である。1961年に発表した『欲望の現象学』はリュシアン・ゴールドマンには評価されたものの、大勢の無視に浴した。だが、1972年に公刊された『暴力と聖なるもの』では前著『欲望の現象学』で提示した三角形的欲望の概念を用いながら、人類学・宗教学・精神分析を駆使した超学的な文明の一般理論の構築を標榜し注目された。1978年の『世の初めから隠されていたこと』では『欲望の現象学』で展開された三角形的欲望の概念・『暴力と聖なるもの』で展開された暴力論/スケープゴート論を基に神と人間との根源的関係の解明を企図した書であり、名実ともにジラールの思考の到達点であった。文芸批評である『欲望の現象学』からキリスト教の影響が色濃く反映されている『世の初めから隠されていること』に至る多彩な仕事で披瀝された三角形的欲望、スケープゴート論、キリスト教論といった独創的な理論は超域/超学的に文化と文明の原質を抉っている。日本においても、山口昌男の『歴史・祝祭・神話』にジラールの影響が窺え、また今村仁司はジラールの暴力論を敷衍した『暴力のオントロギー』を発表しているなど、ジラールの思考の余波を受けている。ジラールの肖像についての素描のあとは、いよいよ『暴力と聖なるもの』について筆をとっていきたいと思う。

 『暴力と聖なるもの』について述べる前に、まずは『欲望の現象学』で提示された三角形的欲望論-模倣(ミメーシス)的欲望論についてその概略を説明したい。なぜなら、この欲望論は『暴力と聖なるもの』の理論の骨子を構成する重要なフラグメントであり、三角形的欲望論の射程と本書の聖暴力論-スケープゴート論の射程は重なり合うものだからである。

 ジラールの命題曰く、人間の欲望は三角形的、換言すれば「模倣的」である。すなわち、欲望を持つ主体とその欲望の対象となるものの間には、いつも媒介者が存在する。われわれがあるものを欲するのは、それがそれ自体として望ましいものであるためではなく、他者がそれを欲しているからであり、他者がそれを望ましいものとして示すからである。他者の欲望を媒介として、私の欲望は対象へと結びつけられ、主体・客体・媒体の三者で構成された欲望の三角形が出現することとなる。欲望は他者の媒介、つまりは模倣(ミメーシス)という作為を通してしか成立しえず、三角形のドグマ的構造に規定されているわけである。これは、現代経済を席巻している広告の有り様を見れば納得しやすいかもしれない。われわれは物それ自体の魅力/有用性ではなく、CMに映し出されるその商品を使い充実した生活を送る俳優やタレントの姿を目にしてその商品を「欲望」する、CMに登場する「媒介者」を「模倣」することで欲望するのだ。そして、ジラールはこのような「欲望の媒介」にはふたつの形式が存在すると言う。欲望主体と欲望媒介の間の距離が遠い場合と近い場合である。近い場合をジラールは「内的媒介」と呼ぶのだが、内的媒介は欲望主体と欲望媒介との間の距離が遠い場合と違い、模倣が主体から媒介へという単一の方向だけでなく、互いの模倣(ミメーシス)が双方向にやり取りされ、このような相互媒介は時に深刻な感情の行き違いを生み、悲劇や破局が生じることもある。『欲望の現象学』においては、この「内的媒介」つまり、欲望の模倣(ミメーシス)が錯綜する中で生じる悲劇がどのように文学に影を落としているかが論じられている。これがジラールの三角形的欲望論-模倣(ミメーシス)欲望論の素描である。続いては本題であるところの『暴力と聖なるもの』における聖暴力論・スケープゴート論について説明したいと思う。

 ジラールが『暴力と聖なるもの』で展開した聖暴力論・スケープゴート論は模倣(ミメーシス)欲望論との密接な関係性の中で構築されていく。以下で暴力を基底として構想されたジラールの基礎人類学の骨子を説明したい。

 人類は「暴力の抑制」という点で、動物に比べ機能の瑕疵がある。動物が種の保存という本能によって仮に相争うことがあっても相互的な殺戮に進まないのに対し、そのような本能が備わっていない人間はみずからの暴力を制御できず、極めて些細なことでも同類を殺害しかないからだ。このように人間が動物よりも遙かに暴力的な存在である主たる理由は、人間が自発的に欲望しえず、他者の欲望に触発され、互いの欲望を模倣することでライバル関係となり、競って同一の対象を自分のものにしようとする、人間の欲望の本質的模倣性にある。この「欲望の模倣」は、欲望の衝突によって暴力が生じるやいなや「暴力の模倣」へと転化し、多方向の暴力の模倣と錯綜は暴力の感染の拡大を呼び込み、暴力の悪循環が共同体を覆い、その共同体を存亡の危機にまで追いやってしまう。

 しかし、そうした自滅的な危機を免れて奇跡的に存続しえた共同体は、原初のある時点で、模倣的・相互的暴力による危機が一触即発の臨界に達したときに、成員のひとりを全員一致で集団的に殺害・排除することによって暴力と恐怖の連鎖を断ち切り、致命的な共倒れの危機を脱した。様々な方向へと拡散する憎悪を、一方向へと収束させることで、憎悪の連鎖から脱却することに成功したいのである。また、欲望の模倣が共同体を分裂に追いやるのに対して、暴力の模倣は全員の結束を確立させる。拡散する暴力に対して、結束した絶対的暴力で打破を図るという解決策であった。こうして、どの共同体でも些細な異質性のために供儀された暴力の収束の対象であるスケープゴートは共同体の危機的な暴力・恐怖の責任者として遇され、その死後においては奇跡のように回復された平和と秩序をもたらした救世主として、事後的に聖別されることになる。であるから、「聖なるもの」は共同体の危機を招来すると同時にその危機を一挙に解決する、人間を超越した(すなわち共同体から外化された)絶対的かつ両価的な暴力を意味し、またこうした暴力をジラールは「定礎の暴力」と呼ぶ。

 あらゆる民族/共同体の神話/伝説に登場する超越的な神々・王・英雄などとして表象されるのは、危機に陥った共同体に再び平和と秩序をもたらした「定礎の暴力」のうちの「良き暴力」の方であり、それに先立つ危機を招いた暴力は「悪しき暴力」として、残忍な神・悪霊・鬼・怪物として、非人間的な存在として表象される。宗教の基礎もこの「定礎の暴力」に求められるのであり、宗教の原質は「定礎の暴力」の反復/模倣である。「悪しき暴力」の恐怖を思い起こしながら、「良き暴力」の浄化作用を祈念するというのが宗教ないし儀礼の原的な機能なのだ。

 模倣(ミメーシス)的欲望のため暴力的な人類、「供儀的危機」の集団的殺害、つまりは「定礎の暴力」による解決、そしてその「定礎の暴力」に端を発する社会・文化・宗教。「スケープゴートの殺害」に文明の原的機能の端緒を求めるジラールの理論は衝撃を与えた。しかも、ジラールの思考は神話や叙事詩の世界に留まらず、現実社会も射程に収めている。共同体の危機は今も何らかの「定礎の暴力」によって解決を図られている。大規模なものならば国家間の紛争、小規模なものならば仲間内のリンチ、犠牲と聖別のシステムは循環を続けている、そして、われわれの文化/宗教はこの大いなる暴力に端を発しており、暴力によって更新されているのだ。この循環をどう捉えるかも、どう対応していくかも、全ての問いはわれわれの前に突きつけられている。