流薔園

「物事を遠くへ押しやる時、一切はロマン的になる」(シュレーゲル)

それぞれの日和に

 語りとは、受け手を想定して初めて成り立ちうるものであると言う。ならば、私がこうして手慰みに始めようとしているこの私的な記録は果たして語りでありえるかどうかは知れたものではないと思う。恐らくそれは偶然に任せるしかないのではないか、たとえ自己完結した独白であったとしてそれが他者に届くという僥倖に恵まれれば、それは立派な語りであり、関係でありえると思う。だから、私は偶然にある種の希望を抱いていると言えるだろう。この拙い断片的な散文が誰かの目に触れ、なにがしかの重なり合いが生まれることを願いながら、私はこうして最初の挨拶、あるいは挨拶という名の独白を行なっているのだ。

 この試みの中で、私は自身の息遣いを文面に吹き込みたいとも思う。精神の在りよう、生活の様子をこの場で再現し、それによって私の在り方そのものを語り、残したいとも思う。それは、私的で自己完結した性質となることが予想されるであろう将来此処に積み上げらる文章においては自身への正直さがある種の生命となるであろうと思うからだ。

 この駄文が誰かの目に届くことを願いながら、また自身に透徹としてあることを課しながら、これから語りかけていく未知の人々のそれぞれの日和を想いながら、改めて「よろしく」と挨拶したい。