流薔園

「物事を遠くへ押しやる時、一切はロマン的になる」(シュレーゲル)

映画『ローザ・ルクセンブルク』短評

友人に誘われ、久方ぶりに映画鑑賞をした。演目はマルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『ローザ・ルクセンブルク』。19世紀末から第一次大戦にかけて活動した女性革命家のローザ・ルクセンブルクの伝記映画である。社会主義運動の草創期や敗戦と革命に揺れるベルリンの混迷がどう描かれているかを期待して見た。

ロシア革命を受け、反逆の炎をポーランドに広げようとワルシャワで活動していたローザが政治犯として投獄されるシーンから物語は始まる。女学生あがりの、澄んだ瞳に理想社会への意志と社会悪への闘志を秘めた純情な革命家。同志と恋に落ち、所属するドイツ社会民主党消極的態度に憤りを覚える彼女の姿は、若さそのものの現れだった。劇中の台詞である「19世紀は希望の世紀だった。20世紀は、その実現の世紀となる!」は、若々しいローザの姿を表現した言葉でもある。生誕したばかりの社会主義運動、情熱の実現であるロシア革命、躍進を続けるドイツ社会民主党。ローザが若々しいのと同時に、世界そのものも青春のただなかにあった。しかし、甘美な青春期は永続しない。ローザの無垢さに影が差し、そして世界にも翳りが見えてくる。同志との恋愛の挫折、戦争へと傾斜していくドイツそしてヨーロッパの現状に対して無力でしかありえない党への幻滅。ローザはドイツ社会民主党への失望から、より過激な路線を標榜し、スパルタクス団そしてドイツ共産党を結成するに至る。ふたたび投獄されるローザだったが、レーテによるドイツ革命の勃発と敗戦によって釈放される。かつての同志であるドイツ社会民主党が新政府を樹立するなか、それに満足しないローザは真の革命を目指し活動するが、ドイツ共産党の議会選での敗北を契機として、労働者を中心とする革命軍による武装蜂起が起こる。銃声と硝煙に包まれるベルリン。しかし、それはもう若々しさに祝福された青春期を回復させはしない。旧秩序を破壊し尽くした第一次大戦の暴力と動乱は、彼らの理想と無垢さも喪失させていた。同志であるリープクネヒトに「あなたは皺が増えたようだ」と話しかけるローザ、「われわれももう若くはない」と応えるリープクネヒト。若々しさの廃墟に残されるのは、解けることのなき呪いのような革命への固執でしかない。革命は鎮圧され、ローザはフライコール(反革命義勇軍)に捕まり、虐殺される。銃床で殴りつけられ、頭を撃ち抜かれ、運河に投げ落とされるローザ。あまりにもあっけない、青春の終焉。甘美な夢が、単なる夢でしかないことを知る、残酷な瞬間。ローザがあっけなく殺されてお仕舞いという結末の描写の素っ気なさと残酷さが、このローザ・ルクセンブルクという革命家の生涯の本質を物語っている気がした。若々しさの喪失は受け入れるべき当然のことがらなのであり、夢から醒める瞬間はいつも突然なのだから。若さを無くしつつあるローザは時代から取り残されるしかなく、滅び去るしかなかったのだ。

  若々しい革命の熱情、そしてその喪失と敗北として描かれたローザの物語、それを彩る美しい映像と情熱的な演技。非常に良質な、印象に残る映画だった。

ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力―〈アブジェクシオン〉試論』

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「構造」の概念が世界の知的状況を沸騰させていたなか、静態的な構造主義的テクスト理論に対し意味生成の動性を提示しテクスト理論・記号論に新境地を開き、現在も思想シーンの熱源であり続けている思想家ジュリア・クリステヴァ。今回取り上げる『恐怖の権力』はクリステヴァの九冊目の著作であると共に、クリステヴァの理論的進展を画期する重要な著作である。

クリステヴァの仕事は『記号の解体学――セメイオチケ』(1969)に代表される第一期、『詩的言語の革命』(1974)に代表される第二期、そして本書、『恐怖の権力』を嚆矢として展開されている第三期の三つの時期に整理することができる。それぞれの時期を、提起されている鍵概念を元にして特徴付けるならば、まずは生産物としてのテクスト概念から生産性そのものとしてのテクスト概念への転換、次いでル・セミオティック(原記号態)の噴出によるル・サンボリック(記号象徴態)の破砕としての詩的言語論、最後にアブジェクト(負性、おぞましさ)をアブジェクシオン(棄却)することによる主体形成の理論、となる。そして、これらのクリステヴァの各時期の思索は相互に密接に関係しており、ここで扱う『恐怖の権力』を正確に理解するためには、クリステヴァの歩みを概観する必要がある。まずはクリステヴァの思惟の軌跡を時間軸に沿って辿っていくことを本稿の導入としたいと思う。

ジュリア・クリステヴァ1941年にブルガリアで生まれた。富裕な両親のもと、幼少期からフランス語教育とフランス文化の薫陶を受ける。当初は自然科学を志すが、共産党員の子弟でなければその道での大成は難しいと知り文学を専攻。1965年にはフランス・パリに留学し、社会科学高等研究院に設けられていた、マルクス主義文芸批評で知られるリュシアン・ゴルドマンと構造主義の代表的理論家であるロラン・バルトのゼミナールを受講。ゴルドマンから高い評価を受けていたものの、結局クリステヴァはバルトに傾倒していく。1966年にはバルトの縁でポスト・ヌーヴォーロマンの旗手であるフィリップ・ソレルスと出会い、ソレルスの主宰するテル・ケル誌に参加。また、バルトのゼミナールで当時フランスではよく知られていなかったロシア・フォルマリズムミハイル・バフチンの文学理論を紹介し、注目される。そしてテル・ケル誌に発表した論稿を纏めた『セメイオチケ』を1969年に刊行し、フランスの思想界に鮮烈に登場する。

セメイオチケ』においては意味生成性、ジェノ=テクスト/フェノ=テクスト、間テクスト性(相互テクスト性)というクリステヴァ初期の思考の核心となる概念が提示されている。続いてはこれらの概念を説明していきたい。まずは「意味生成性」について取り上げよう。

記号学は従来、言語を分析する際に、言語の生成過程に目を向けず生産物としての意味と意味の交換である伝達(コミュニケーション)のみを扱ってきた。クリステヴァは意味生成性という概念を提示することで、意味の生成過程全体に目を向ける。意味生成性とは、意味の胚芽状態から、伝達できる意味の成立へと至る、意味生産の全過程の働きのことである。この働きは、「差異化」・「成層化」・「対決」に分類される。差異化とは、差異によって構成される記号を成立させる重要な契機であり、これにより記号体系が成立する。成層化とは、そのようにして成立した記号体系が意味の表層を成立させる過程を意味する。対決とは、意味と意味ならざるものが併存している緊張状態を指している。生産物としての意味の次元だけを対象としてきた既存の記号学・記号論(セミオティックス)に対して、クリステヴァは意味の生成過程の分析を領野とする「記号分析学」を提唱する。生産の結果成立した言語の体系の構造についてだけを課題としていた構造主義言語学構造主義テクスト理論が静態的であるのに対し、クリステヴァの生成の過程を射程に入れたテクスト学はきわめて動的でダイナミックなテクストの誕生を捉えることを目的としている。

続いては「ジェノ=テクスト/フェノ=テクスト」の説明に入る。生産性としてのテクストを分析する記号分析学は、テクストにジェノ=テクストとフェノ=テクストの二側面を見出す。フェノ=テクストとは、フェノメーヌつまり現象としてのテクストであり、出来上がった生産物として捉えられるテクストのことである。ジェノ=テクストとはジェネラシオンつまり生成としてのテクストであり、生産性ないし生産活動として捉えられたテクストである。あらゆるテクストはこの2側面を有する。フェノテクストが意味作用・伝達機能というテクスト表層の次元で展開するのに対して、ジェノ=テクストとは意味作用の深層での生産の局面で展開するテクストなのだ。フェノ=テクストとジェノ=テクストは相互的に機能していて、記号分析学はこのふたつのテクストの関係と、フェノ=テクストに現われた深層のジェノ=テクストの分析を主たる役割とする。

そして「間テクスト性(相互テクスト性)」であるが、この間テクスト性とは、元はクリステヴァミハイル・バフチンから継承した概念である。あらゆるテクストは様々な引用のモザイクとして構成されていて、全てのテクストは他のテクストの吸収・変形であるとする見解であり、テクストは孤立して存在するのではなく、過去に書かれたテクスト、将来書かれるテクストと関係し合っており、テクストは社会・文化環境・歴史といった外部へと開かれた存在として理解される。テクスト空間は独語(モノローグ)つまり単一論理が支配する時空ではなく、対話(ダイアローグ)する複数の論理によって構成された時空として捉え直される。テクストは複数のテクストの巡り会う場として展開し、いくつもの社会・歴史・文化へと開示され、多くの対話(ダイアローグ)が展開されることになる。このようなテクストの喧噪の中でバフチンが提唱する「多声性(ポリフォニー)」が生まれていく。

これらの概念群が示唆するのは、「生産物としてのテクストから生産性としてのテクストへ」という転換に他ならない。「間テクスト性」が提示する「テクストとは他のテクストのパッチワークである」という前提は、テクストの生誕を単一的な論理に支配された無からの創造ではなく、テクストの「転生」、ひとつのテクストが砕け散り、再び他のテクストの磁場に収斂され、散り散りになった多くのテクストとともに新たなテクストを形成するという「転生」の過程であることを指している。この「転生」によって、テクストは「生まれると同時に生む」テクストであれる。そして、この性質こそが、「意味生成性」という「テクストの生産的な性質」なのであり、「ジェノテクストの性質」でもあるのだ。

こうして、従来のテクスト理論を刷新するような鮮烈な記号論を提示したクリステヴァだったのだが、『詩的言語の革命』(1974)によって新たな理論的展開を迎えることになる。クリステヴァ70年代に入って精神分析理論に傾倒し、ジャック・ラカンのゼミナールに参加するようになる。そのような精神分析への熱心な取り組みが結実したのが『詩的言語の革命』であり、無意識理論を取り込んだ記号論の再構築が目指された。この後、クリステヴァは精神分析家の資格を取得し、著作においても精神分析の影響が色濃くなっていく。「言語学から精神分析へ」というクリステヴァ思想における重要な転回の画期としてこの著作を捉えることができる。

クリステヴァが『詩的言語の革命』で提示した重要な概念に「ル・セミオティック(原記号態)/ル・サンボリック(記号象徴態)」というものがある。次はこのル・セミオティック/ル・サンボリックという概念について見ていきたいと思う。

現代記号学には、大別してふたつの潮流があった。ひとつは記号と記号が表象する事物との間の関係性を問い直す潮流であった。ソシュールは記号と記号が表象する事物との間には必然的な関係はない、それは人間の理性が仮構した恣意的な関係に過ぎないとしたのであるが、それを揺るがす見解がフロイトの無意識についての理論であった。フロイトの分析した夢においては、欲動エネルギーと欲動エネルギーを表象する夢テクストの間に特有の法則性を介し明らかな有縁性が認められたためである。意識-理性が表象を恣意的に統御するという見解に反し、根源的な関係によって事物と記号(表象)とが結ばれていることをフロイト理論は示唆していた。第二の潮流が記号体系を従来の殻を破り、発信者-受信者の関係を含んだ重層的な布置に拡張しようというパンヴェニストらの試みであった。記号だけで成立し閉塞していた表徴体系を、人間関係の次元にまで拡張しようというのがこの試みであった。そして、クリステヴァはこの二つの潮流は、同じ意味生成作用の二つの様態を述べたものであるという。第一の潮流において現われている、意味生成作用の肉体と結びつく領域を「ル・セミオティック(原記号態)」と言い、第二の潮流において現われている従来の表徴体系を超えて社会・歴史と結びつく領域が「ル・サンボリック(記号象徴態)」と呼ばれる。テクストは生み、かつ生まれるという両価的な属性を持ち合わせているという概念はジェノ=テクスト/フェノ=テクストで提示された。ル・セミオティック/ル・サンボリックの概念もジェノテクスト/フェノ=テクストを敷衍した理論であり、身体とコミットするル・セミオティックは生成を、社会と接続されるル・サンボリックは生成による展開の拡がりを示唆している。これらは、従来の「生まれ-生み出す」という関係のみならず、記号体系一般とそれに接続する異質な外部(ここでは肉体/社会)も含めて言語活動・記号実践を包括的に捉えることを目指して構築された概念である。

『詩的言語の革命』の功績のひとつに、「語る主体」の問い直しという問題が挙げられる。これまで、言語学において「主体」の問題は閑却されてきた。フェルディナン・ド・ソシュールが表象と事物との関係を「理性による恣意的仮構」として規定して以来、理性-主体は自明の前提としてみなされ、その詳細が論じられることはなかった。また、構造主義言語学が隆盛するようになってからは、従来の閉鎖的主体概念への反動から主体を超脱した「構造」の概念が君臨するようになり、主体はまたもや閑却に付されてしまったのである。クリステヴァはこの状況に対し、過去にテクストの静態的構造のみを議題としてきた言語学を、意味の生成の現場に視線を向け転回をもたらしたように、完成された主体のみならず、「主体の生成」の現場へと遡行することで回答を提示しようとする。

クリステヴァは、プラトンの『ティマイオス』から主体生成の原理へと接近していく。プラトンは、『ティマイオス』において生成のシステムを次のように定義している。1生成するもの2生成する場3生成するものが、自身のモデルとするもの――生成する万物の子宮あるいは揺籃として2の「生成する場」は捉えられており、生成された万物が宇宙の各所に配分されたのちに万物に秩序を賦与するのが3の「生成するものが、自身のモデル」とするものである。2の「生成する場」は秩序付けられた宇宙の出現に先行する、その基盤を準備するものであり、3の宇宙全体の秩序化の以前に働く権能である。そして、クリステヴァ2の「生成する場」、プラトンが「コーラ」と呼ぶ概念を「母」に割り振り、1の「生成するもの」に「子」、3の「生成するものが自身のモデルとするもの」すなわち宇宙を規律する規範に「父」の概念をそれぞれ仮託する。そして、クリステヴァ2の「生成する場」をル・セミオティック、3の「生成するものが、自身のモデルにするもの」をル・サンボリックであると述べる。肉体と結びつき、いまだ整序化に至らぬ混沌にあるル・セミオティックの領域は紛れもない「生成」の領域であり、成長と法(=「父」)への帰順と秩序の体現を意味する3は社会そして歴史へと接続する局面を表すル・サンボリックで表象される。ル・セミオティックとは「生産物を生み出す生産そのものの秩序」であり、ル・サンボリックは「生産物の秩序」である、という要約ができるだろう、そしてクリステヴァはル・サンボリックの側面に偏向していた西欧思想に対して、母なるもの、ル・セミオティックの復権を図る。

こうして、クリステヴァは「生産物の秩序」そして「生産性の秩序」を以前のテクストの次元を遙かに飛び越えて、壮大なイメージのもとに素描してみせた。クリステヴァはこの概念を基礎にさらに「生成」の場へと迫っていく。ここでクリステヴァは、フロイトが研究の重要性を説きながらついに観察を深めることがなかった、「前エディプス期」という問題を足がかりにしようとする。フロイトの主体発達論では「エディプス期」とは父の登場を契機に父が体現する法に服するようになり、超自我(フロイト理論における、人格の規範的な側面をいう)が形成されるようになるのだが、それに対して前エディプス期とは文字通り、父が登場する以前の母子二者関係からなる発達期を言う。ここではまだ子は主体以前の状態であり、母の身体に融合している状態である。この状態から、母を対象化し、自我を確立するに至るプロセスにクリステヴァは主体形成の重要な瞬間を見出そうとする。そして、この枠組みは『恐怖の権力』において結実することになる。

この、主体形成の途上で起こる現象に「棄却」がある。クリステヴァの『恐怖の権力』の主題のモティーフになったこの「棄却」という事例はフロイトによって報告されている。フロイトが観察していた一歳六ヶ月の男児は数時間母親が傍にいなくても堪えられるようになっていたが、やがて奇妙な癖を見せるようになる。手にするものを何でも遠くへ放り投げ、「オーオーオー」と叫ぶのである。これは「Fort(いない)」と言っているのだと判断された。ある日、糸巻きを手に持った男児は、それを寝台の陰に放り投げ、それが見えなくなるとオーオーオー(Fort…Fort…Fort…=「いない、いない、いない」)と叫び、次に紐を引っ張って糸巻きを取り出し、ダー(Da=「居た」)と言ったという。これをフロイトは「消滅と再会の再現」の遊戯であると言う。クリステヴァは、この糸巻きの放擲行為に主体形成途上における「棄却」の欲望の発現を見る。

1970年代後半、そして1980年代に入ってからのクリステヴァの思考において、この「棄却」なる概念は重要な意義をもつことになる。癒着状態の「母」をいかに「棄却」し自我を確立するか。「棄却」することで主体を形成していくプロセスの実像とはどのようなものなのか。そしてその主題は、再びテクスト理論にも流入していく。論文集『ポリローグ』(1977)では、上の事例を取り上げ、この幼児の母親の代わりに糸巻きを投擲することで、不在の母親を再現しているという行為が、母親を「代理表象」とするものだとした。これまで傍に居た母親を棄却され、排除されることで記号が立ち現れる。このプロセスは前記号的な流動状態(ル・セミオティック)から、静的な表象秩序(ル・サンボリック)への移行として捉えられるという。そして、これは母親からの子の分離と自我・主体の確立でもある。母・子の分離はこうしてテクスト(表徴体系)の生誕のプロセスとしても捉えられるのだ。

そして、「棄却」という主題は『恐怖の権力』(1980)でクリステヴァに新しい理論的局面を切り開かせることになる。それでは、予想外に長くなってしまった前説を終え、本題であるところの『恐怖の権力』について述べていきたい。

『恐怖の権力』で試みられるのは、父が登場する以前の母子の二者関係の究明である。いわゆる「前エディプス期」における母子関係では、母―子の分離は行なわれておらず、一体となって融合し、共生している。しかし、同時に、そこには分離へと向けた歩みが開始されている。この原初状態を解明するために、クリステヴァは「棄却(アブジェクシオン)」というメカニズムを導入する。前エディプス期の母子の関係は、母が誘発する「棄却(アブジェクシオン)」によって、母子の融合-共生状態から母子分離へと移行するとクリステヴァは考える。それでは、この棄却(アブジェクシオン)というメカニズムについて説明していこう。アブジェクシオン(棄却)とは、いまだ対象とならずに一体化している母という前-対象が、融合の快楽で魅惑しながら、しかし同時に嫌悪を誘発するアブジェクト(おぞましいもの)となってアブジェクシオン(棄却)されることを意味している。

通常のフランス語の語法では、abjectとは「おぞましい」という形容詞、abjectionとはabjectの名詞形として「おぞましさ」という意味をもつ。一方、この言葉の語源を辿ると、abjectionの元になったラテン語のabjectioabは空間的疎隔を表し、jectioは遠くへと放り投げる行為を表している。Abjectionの根源的な意味は、「分離すべく=投げ出されたもの」と解される。また、フランス語で「対象」を意味するobjetabjectを合成した造語abjetクリステヴァは用いているが、これは「いまだ対象となっていない」という意味合いをもつ。abjet,abject,abjectionといった言葉が織り上げる意味は、「いまだ対象となっていない、分離すべき、おぞましい前-対象」である。そして、これは他ならない子と融合状態にある「母」へと繋がっていく言葉たちであり、生成の現場を飛び交う言葉たちである。いまだ主体ならざる前-主体の子が、いまだ対象ならざる前-対象の母を棄却する働き、それこそが棄却作用(アブジェクシオン)なのだ。融合状態の甘美さとおぞましさのあいだを往還しながら、子である前-主体は自我を確立していく、母を「棄却(アブジェクシオン)」しながら。

続いて、クリステヴァはこの棄却作用(アブジェクシオン)が投げかけた波紋を文化史・宗教史の中に探っていく。歴史の様々な場面における、禁忌(タブー)や「穢れ」の概念といった「おぞましきもの」――魅了されながらも目を背けずにはいられない、そんな「おぞましきもの」の根底にある原理をクリステヴァは解体していく。

まず、扱われるのは近親相姦の禁忌(タブー)である。フロイトは『トーテムとタブー』において、近親相姦の禁忌と殺人の禁忌を自身の理論を用い説明している。『トーテムとタブー』によると、原初の社会では女性を独占し、生まれた子供を次々と追い払ってしまう暴力的で嫉妬深い父親がいた。この時に、兄弟たちは、力を合わせて父親を殺害し、新たな共同体を立ち上げようとする。けれども、このままでは女性を取り合い再び争いが起こる可能性があるので、兄弟達は近親相姦の禁忌を定め、殺害された父をトーテムとして祭祀し、殺人を戒めた。これはオイディプス的構造に準拠し、法としての父の出現を禁忌(タブー)の創始であるとする。一方で、クリステヴァは「父」が出現する以前の前オイディプス期にまで遡行し、近親相姦タブーは母と子の「アブジェクション」、つまり距離付けであると説明する。

「おぞましきもの」の棄却(アブジェクシオン)が記号を出現させ、表徴の体系の端緒となることは「糸巻きを投げる子とも」のくだりで説明した。古代社会で生じたのも同様の現象であった。おぞましきもの、具体的に言うと「母」にまつわる事物を棄却(アブジェクシオン)することで、最初のコード化が社会でなされる。そして、それは供儀・祭礼という形で定式化され、宗教―文化―社会制度へと進展していく。この穢れと聖性のコード化は、まず近親相姦を初めとする禁忌(タブー)から始まることになる。行きすぎた母-子の融合状態を想起させる近親相姦のタブー、経血のタブー、出産のタブー、母を想起させる食物(ユダヤ教における子ヤギのミルク)のタブー…母なるものの棄却(アブジェクシオン)は禁忌(タブー)の形をとって様々に展開していく。

しかし、タブーはある時期を迎えると、ある転回を見せることになる。穢れはこれまで、外部の事柄であった。それが、キリスト教の登場以後、穢れは内面化される。すなわち、人間そのものが穢れているとされる。原罪の観念がそれだ。罪を浄化するには、つまり穢れを払うためにはこれまでのように遠ざけるといった単純な方法ではなく、精神的な告解や内省が必要とされる。アブジェクシオンの精神化という現象がここで生じる。そして、アブジェクシオンの内面化という現象の延長で、アルトーといった現代文学が取り扱われ、その作品世界内の「アブジェクシオン」が検討されていくのであるが、ここで現代におけるアブジェクシオンの最大の演出者にして最大の犠牲者である作家、フェルディナン・セリーヌの問題が浮かび上がってくる。

フェルディナン・セリーヌは、自身をモデルとした青年バルダミュを主人公とした小説『夜の果てへの旅』で衝撃的なデビューを飾った。俗語を露悪的に用い、都会人の殺伐とした感情を摘出してみせたこの作品は、そのペシミスティックでドラスティックな作風で文学の負性、「おぞましさ」を体現してみせた。続いて同じく自伝的作品である『なしくずしの死』では、主人公フェルディナンの少年期が荒んだ文体で自棄っぱちなのではないかと思えるほどあからさまに暴露されている。そして、彼の人生に投げかけられたもっとも暗い影、反ユダヤ主義への傾倒とナチスへの礼賛を示す、『死体派』『虫けらどもをひねりつぶせ』などの政治的パンフレットの数々が彼の文学の「おぞましさ」の骨頂を露呈している。

クリステヴァは、セリーヌの文学と反ユダヤ主義は切り離せないと言う。なぜなら彼にとって、「ユダヤ人」とは棄却すべき「母」であるからだ。ファシズムに親和性を示しながら(ヴィシー政府に協力すらした)ブランショが後年に至ってレヴィナスやショーレムといったユダヤ思想に傾倒したように、セリーヌにとって「ユダヤ人」は魅了されながらもおぞましさに目を背けてしまうような、「棄却」しなければならない「母」であったからだ。セリーヌの作品にぶちまけられた「おぞましさ」はユダヤ人というコードがなければ理解しえない。彼はユダヤ人を排除しながら、彼らに自らのイメージを託したのだ。

第二に、セリーヌが「医師」であったことがセリーヌの文学を解読するコードになる。医師という職業が死と腐敗と汚辱に満ちた職業であるだけではない、彼が研究していた「衛生学」にクリステヴァは着目する。穢れを払い、浄化するという衛生学の根本的な機能が、彼自身の文学とのアンビバレントな関係とともに、倒錯した棄却(アブジェクシオン)へとセリーヌを駆り立てたのだ。聖別と汚濁の境界で、セリーヌのテクストはアブジェクト(おぞましきもの)を引き離しながら抱き寄せてみせた。おぞましきものとの融合と分離が生んだ最も戦慄すべきケースとしてセリーヌは位置付けられている。セリーヌのテクストは何処までもおぞましいにも関わらずわれわれを魅了するような「アブジェクシオン」なのである。

「棄却(アブジェクシオン)」こそが、表題の「恐怖の権力」としてわれわれを規定してきた。そして、その「恐怖の権力」がわれわれに突きつけた最大の問いが、『恐怖の権力』の三分の一もの分量を使って論じられたフェルディナン・セリーヌなのではないだろうか。おぞましさと魅惑、融合と分離との間の混沌から、われわれは無事に生還できるだろうか?

 

この前は「放蕩」の思想家としてバタイユを取り上げた。今回はバタイユと対をなすように、「生産」の思想家としてクリステヴァについて書いてみたが、この対称はなかなかに面白いのではないだろうか。

ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分―普遍経済学の試み』

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 「至高性」や「エロティシズム」、「蕩尽」を根源的な主題として、近代の主知主義・生産を基底とする世界像を批判、政治学・経済学・人類学・宗教・文学・哲学・芸術などの多岐に渡る領域で執筆活動を展開し、独自の思想世界を構築したジョルジュ・バタイユ。今回取り上げるのは、『呪われた部分』という総称の元に包括される社会科学的著作群の劈頭を飾る、一連の著作群の総称と同じ題名を冠する『呪われた部分―普遍経済学の試み』である。晩年のバタイユは思想的総決算として自身の著作活動を三つの著作群に纏めようと構想していて、第一に「聖なる神」の主題のもとに統合される文学作品群(『マダム・エトワルダ』『わが母』『シャルロット・ダンジェルヴィル』)、第二に『無神学大全』三部作(『内的体験』『有罪者』『ニーチェ論』)、そして第三が『呪われた部分』の総題の元に展開された一連の社会科学的作品群である。バタイユと言えばおそらく多くの人々が連想するところの文学作品や、論理的整合性を欠いた断片的な作品、語ることが困難な「神秘的体験」を綴った『無神学大全』などと共に彼の多様な側面の一つを代表する作品が本作なのであり、透徹した論理性・明晰性を特徴とするこの作品は、『無神学大全』などが内在的に「体験」を語ろうと試みるのに対し、外在的に、歴史的に「体験」に接近する試みとして理解することができる。生産・蓄積・再生産を見越した有効な消費というサイクルを基調とする従来の偏狭な経済観を批判し、非生産的消費である「蕩尽」を鍵概念として世界的視野を有する「普遍経済」の概念の提起を図る。そしてこの「普遍経済」とはエネルギーの過剰がもたらす沸騰運動として位置付けられており、人間と世界を規定する構造そのものとしての「普遍経済」の探究こそが本書の核心をなす企てなのだ。

 「普遍経済」についての説明に入る前に、バタイユの生涯の素描と『呪われた部分』及び『呪われた部分』で展開された「濫費」「普遍経済」「エネルギー」といった諸概念が彼の思想遍歴のなかでどのような布置を取るかを確認しておきたいと思う。ジョルジュ・バタイユ1897年に中央フランスで生を享けた。青年期はキリスト教に傾倒し、神学校に学ぶ。その後はグランゼコールの一つである国立古文書学校に進学するが、徐々に信仰に揺らぎが生じ始る。国立古文書学校を卒業後にパリ国立図書館司書の職に就き、ニーチェを耽読するようになって、バタイユは遂に信仰を棄てるに至った。また、この頃からレフ・シェストフと交際するようになり、シェストフからの影響でドストエフスキーキルケゴールを読むようになる。1924年にアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』が出版され、シュルレアリスムは若い文学者・芸術家を中心に大きな反響を起こすが、バタイユは当初からシュルレアリスムに距離を置いていた。バタイユが『ドキュマン』誌を主宰するようになってからは、同誌に掲載されたバタイユの論文をブルトンが攻撃し、それに対してバタイユが応酬するという形で激しい論争が起こるようになる。1931年に『ドキュマン』誌が廃刊すると、バタイユマルクス主義的な『社会批評』誌に参加、同誌の関係者が中心となった「民主的共産主義者サークル」のメンバーにもなり共産主義への接近の姿勢を鮮明にした。バタイユはこの時期に『呪われた部分』の原型となる「消費の概念」や、ファシズムの原理の解明を目指した「ファシズムの心理構造」等の重要な論文を『社会批評』誌に発表している。「ファシズムの心理構造」は社会を形成していた「同質性」が崩壊する現代、「紛い物の至高性」が登場し、人々を同質性に再び纏め上げようとする運動こそがファシズムであると論じ、ここからバタイユの中心的な課題は「共同体」へ、人々はどのように社会へと編成されていくのかという問いへと展開していく。また、1934年にはコジェーヴヘーゲル講義を受講し大きな影響を受けた。1935年には反ファシズムを旗印にそれまで反目していたブルトンシュルレアリストと和解し、共に革命的知識人の同盟である「コントル・アタック」を結成するが、この組織はすぐに瓦解することになる。この失敗の経験が、改めて「共同体」の問題をバタイユに問うことになり、やがてバタイユは理想の共同体を求め、少数の友人によるコミュニティを結成する。それが「アセファル」あるいは「社会学研究会」である。バタイユは「紛い物の至高性」によって同質性を維持しようとする左右のファシズムを脱却しうる共同体を模索しようとしたのだ。しかし、アセファルも結局は挫折してしまう。バタイユは共同体の問題も包括しうるプロブレマティークとして、個/内面の体験の探究に沈潜していく。そこで生まれたのが『内的体験』や『有罪者』といった作品群であり、そこでは神秘体験が断想の形をとって記述され、語ることが困難な経験がそれでも語ろうと試みられている。これは同時に、進歩的知識人から神秘家へのバタイユ自身の相貌の変化も示していた。こうして神秘体験へと向かったバタイユの思考であったが、その後また異なった展開を見せることになる。バタイユは戦後になって『クリティック』誌を主宰し、「消費の概念」で展開された概念を発展・洗練させた『呪われた部分』という総題で包括される一連の著作群を試みる。それは共同体、そして内的体験と変遷してきたバタイユの思考の総決算、到達点であった。人間の主体的な意志と能力から成立する「生産」の系と対立する「蕩尽」の概念は、自分を「人間」へと作り直し、自然を否定し労働によって自然そのものをひとつの目的へと屈服させるようになった人類にとっては隠された欲望であり、自然的な欲望なのだ。「作る」のでも「増やす」のでも「貯蔵する」でもない、「蕩尽」の欲望の解明とは、自然なる総体としての人間の復権を射程に収めた『呪われた部分』の核心をなす主題であったのだ。

 では、本題である『呪われた部分』の論旨を見て行きたい。まずは、「エネルギー流動」と「過剰さ」について取り上げたいと思う。バタイユの試みる「経済学」は金銭や商品のみを対象とした従来の偏狭なエコノミクスではない、バタイユが対象とするのは生命そして生命が組み上げる自然/文明をすべて包括しうる、エネルギーの経済学である。この世界が展開するための機構と機構を稼働させる燃料とをすべて対象とする超域的な経済学なのだ。そして、地球上のエネルギーの根源は、太陽から放射される熱である。この熱は、補給や見返り無しに地球に与えられる。この熱は循環したり、回収されることがない、この熱の本質は「過剰なるもの」である。他方、熱は生命体を生み出す。生命体がこの熱によって産み出されるなら、生命体の本質は「過剰」である。本質としてのこの「過剰」をどう処理すべきかというのがバタイユの問題意識の所在する場所なのだ。バタイユはこの莫大なエネルギーを放つ太陽というイメージを文学作品で幾度も描写している。第一に「イエスヴィァス山」で描かれた噴火のイメージであり、「太陽肛門」ではそれは肛門における排泄作用として描かれる。「過剰が吹き出す」というイメージが、太陽と肛門を重ね合わせるのだ。しかし、猿が人間になるプロセスにおいて、彼は肛門を足の狭間へと隠してしまう。では、エネルギーの過剰は何処へ向かうのか?それは元々存在した太陽を目指し、身体の上部へと向かい、太陽を見るためだけに眼球を作り出す。それが「眼球譚」のイメージなのだ。つまり、過剰なエネルギーは何処へ向かうのか、それがバタイユの第一義的な主題なのだ。そして、この問いにバタイユはこう答える。過剰である限りは、それは過剰なまま浪費されなければならない。つまりそれは有効性に還元されることなく、無意味に使われ、喪われなければない、と。

 次は、この「浪費」あるいは「蕩尽」について述べていきたい。果たして現代において「蕩尽」は行なわれているのか、あるいは「蕩尽」とは可能なのか、ということを。

 近代資本主義社会は、「等価なものの交換」しか知らない。現代においては貨幣という共通の尺度を設定し、その体系に従い商品に価格を付け、貨幣と等価な商品を交換することで商品経済は成立している。また、古代の人々が行なった交換も自分に欠けたもの、必要なものを他者から受け取り、その代わりに相手に自分の物を与えたのだと我々は想像する。そこでもやはり、価値の釣り合いが双方の合意に含まれ、等価交換として当時の交換様式は捉えられる。しかし、原初の人間はその意識はなかった。それは「結果として物と物を交換したかのように見えた」だけである。原始社会の「交換」は、「有用性」つまり効用と切り離されているのだ。では、古代の交換は何と深く結びついていたか?古代社会においては、狩猟や農耕で獲得された収穫物は、むろん自分たちで消費もしたが、まずは「初物」として神に供儀された。それは消費することが「何か役立つ」と見越された上での消費ではない。消費それ自体の中に、究極的な目的が蔵されているのだ。この消費は「非生産的」な消費として見える。これこそが「蕩尽」なのだ。そして、既存の経済学はこの「蕩尽」を考察することがなかった。バタイユは、エネルギー消費の働きは、二つの部分に弁別されるとする。第一の部分はなにかに還元可能なものであって、一定の社会に属する諸個人が、生命を存続させ、生産活動を持続させるのに必要な最小限に生産物を使用するという働きだ。第二は、非生産的な消費である。即ち、奢侈、供儀、葬儀、戦争、祭礼、見世物、倒錯的性行為、そして後で述べる贈与慣例「ポトラッチ」などである。バタイユは生産と生産的消費のみに着目してきた従来の経済学を「限定経済学」とし、自身が計画する生産活動と生産的消費活動に加えて非生産的消費活動即ち「蕩尽」を含んだ経済学を「普遍経済学」と位置付ける。

 古代の代表的な消費の在りようである「交換」は、非生産的な消費にカテゴライズされる消費であり、「普遍経済学」でしか解明できない交換様式だった。それは何かを獲得し、所有することを目指したのではなく、「自分が所有する富を手放す」という濫費的色彩が濃いのだ。マルセル・モースの『贈与論』によると、贈与とそれへの返礼の慣行が、やがて「交換」へと発展したという。これは贈与が相手に負債感(負い目)を与え、その贈与を更に超える返礼を行なうことが繰り替えされたためだ。

 バタイユは、これを真の贈与と見ない。贈与と返礼のシステムからは、贈与―返礼の繰り返しによってやがては自分が贈った品が自分の元に付加価値と共に戻ってくるという「領有化」という「生産的目論み」へと転化していくのだ。この「見せかけの贈与」に対して、真の贈与としてバタイユは「ポトラッチ」を例に取る。ポトラッチにおいては相手の目の前で自身が所有する富をこれ見よがしに破壊するのだが、これこそが、消失そのものを目的とする消費、濫費であるという。

 しかし、ポトラッチによっても、生産的効果は得られてしまう。それは剛胆さや勇気を意味し、行なった人物のコミュニティでの評価を高めてしまうのだ。そして、供儀や戦争などの一見無意味な蕩尽に見える営為も、共同体の結束や宗教的権威の確立など、生産的効果へと結びついてしまう。つまり、バタイユは蕩尽はあらかじめ不可能であるとする。最も無意味なポトラッチですら、意味と生産と過剰とを産み出してしまう。

 『呪われた部分』では、イスラム社会とチベット社会の歴史を辿り、戦争を「蕩尽」の主たる方法としたイスラム、宗教的儀礼を「蕩尽」の主たる方法としたチベット双方の文明の在りようが描写されている。不完全ながらも独自の「蕩尽」を行なってきた二文化圏の素描ののち、バタイユの筆は欧州の歴史へと向かう。

 ヨーロッパ社会においても、中世までは過剰分はチベット社会と同様に宗教的実践に、つまり大聖堂の建設、豪奢な典礼、僧院の運営維持などに費やされていた。しかし、近代に至るとそれは諸生産設備の拡充へと向けられるようになる。本来は非生産的消費へと向けられねばならないエネルギー、本来は生産とは真っ向から対立するはずのエネルギーを、180度転換させて生産へと振り向けたのである。この転換こそが資本主義であり、中世を近代へと変容させたのだ。そして、結果起こったのは生産力の爆発的な飛躍であった。そして、バタイユマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を引用しながら、その契機となったのは宗教改革であると述べる。それまで、信仰とは人間と神の結びつきの中で営まれてきた。しかし、ルターは信仰を支えていた人と神との媒介を破壊した。世界の展開と人間への評決を全て神の主意に還元し、祈るという営為を孤独な個的人間へと閉塞させたのだ。免罪符や壮麗な聖堂の建造、豪奢な典礼の開催は神と人との繋がりが意識上で想定されていたからこそ可能な「蕩尽」であった。ルターの教義体系は教会にも打撃を与え、伝統的な宗教的共同性を瓦解させた。また、「蕩尽」によって約束されていた「神秘体験」即ち「神の経験」も剥奪されることになった。そして、財産は生産的意味しか有しなくなった。ルターが信仰の定義を「蕩尽」から「生産」へと180度転換させたためである。そして、かつて至高性と結びついていた「蕩尽」は、新たな信仰体系である「生産」に背反するがゆえに、「呪われる」こととなるのだ。神の体験は、そして蕩尽は現代における「呪われた部分」なのである。

 

「生産」を語った思想家はウェーバーをはじめ幾人もいる。その裏で、「放蕩」「蕩尽」について筆を執った思想家と言えば、ゾンバルトホイジンガ、そして他ならぬジョルジュ・バタイユくらいのものなのだ。生産というプロブレマティークに支配され、神的体験が掃討されてしまった現代において、「放蕩」「蕩尽」を語る意義をわれわれはどう見出すべきなのか?

 

 

 

モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』

 

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モーリス・ブランショは『来るべき書物』や『文学空間』において、日常からの欠落/死の空間として文学が展開する空間を定義し、日常的生から乖離した本質を蔵した「文学空間」への沈潜を試みた。ブランショの「文学」とは我々を日常空間での流離・埋没から引き離し、生の時空を壊乱することで読み手/書き手の消滅と純粋なテクストの示現をもたらし、「私」という主体のままでは辿り着くことのできない境位への到達を可能にするものであった。しかしブランショの主題は、「死」と「非人称」の充満する異界としての文学空間から拡がり、新たな地点を目指し始める。

 後期ブランショの『彼方への一歩』『災厄のエクリチュール』で見られる変化は「文学」の次元から「生」の次元への変化と言える。この展開は同時に、「コミュニケーション」の次元への変化であるとも言える。そして、この文学から生へ、コミュニケーションへのブランショの思想圏の拡がりは他者との共存・連帯という問題へとブランショを向かわせることになる。そして生まれ落ちたのが「共に在ること」を巡るこの書物、『明かしえぬ共同体』なのだ。

 JL・ナンシーの『無為の共同体』に触発され執筆された本書は、1930年代のバタイユの「無頭人(アセファル)」を代表とする共同体の模索、レヴィナスの他者論、デュラスの恋愛文学を織り交ぜ、「685月」の意義に降り立ち、多様な共同体の輪郭をなぞり、それらの栄光と破局と、そして未来とを照射している。それでは、さっそくブランショの共同体への眼差しを確かめてゆこう。

 この書物の前半部はバタイユの内的経験への遡行と共同体の探求について扱われ、共同体へとわれわれを駆り立てるものの正体が最初の問いとして設定されている。ブランショはナンシーの『無為の共同体』 を引用しつつ、西欧特有の「個」の概念が原因である、と述べる。「個の集積」としての近代社会を基礎付けるイデオロギーは、この社会をかつて構成していた 人間たちは、それまで属していた共同体を解体し、それによって解放され自由を確立した個人の結合した、というものだが、このイデオロギーは「自由な個人」 という正のファンタズムと同時に、「共同体の喪失」という負のファンタズムを生み出す。近代社会は「個の絶対的分離」を基礎としているが、これは単独では 成立しえず、二つの正負のファンタズムへと分裂してしまうのだ。これにより生じた「共同体の喪失」というファンタズムが共同性への傾斜をもたらす。

 この分裂を癒やすため提示されたのが二つの個と全体の弁証法であった。第一に個と個の紐帯を再生させることで喪失された有機的全体性を回復させる試みであり、第二が個を高められた全体にまで昇華させ統合するというヘーゲル的な対応である。第一の弁証法は共同体を近代の到来によって喪失された家郷のイメージで捉え、第二の弁証法において個の止揚によって具現する全体国家として把握される。

 しかし、ブランショ-ナンシーが眼差しを向ける共同体は、このような構造体ではない。ブランショ-ナンシーが見つめる共同体は弁証法的な、あるいは垂直的な歴史構造の「外部」に所在するものである。 ブランショ-ナンシーが構想する共同性の契機とは、「死」である。

 人間が完全に自足することは不可能である。なぜなら、自足するためには死によって自身の生の事実性へと自身を送り返さなければならないが、人間は 自身の死を我が物とすることができない。人間の死は自足した「自己完結」として存在することが出来ず、死とは他者が観測することによってしか存在しえな い。しかし、ではブランショ-ナンシーの視座においては共同体が自足できない個体の補完の組織体として想定されているかというと、そうではない。

 他者の死を受け取ることは出来ても、それを私は経験することはできない。この非対称性の中に共同性の本質が蔵されている。共同性とは、補完でも自足でもなく、「差異」として示現する。そして、自足と目的とをそぎ落とされた共同体は、外部へと開示された無為な共同体である。

 続いて、バタイユの内的経験と共同体との相関が主題となる。バタイユの言う「共同体」は内的経験に密接に繋がっている。バタイユは 内的経験は共同体無しにはあり得ないとし、内的経験と共同体との関係を神秘体験の経験を目指す神秘家と、彼らにその基盤を提供していた信仰コミュニティに 擬する。しかし、「内的経験」が権威の廃絶を目指すものであるとすれば、コミュニティを支える神は最初に廃棄されるべきであるし、信仰共同体が自然に権威 を形成するものであるとするならば、権威の廃絶を目指す内的経験と共同体は対立する事象となる筈である。

 ここで、バタイユはたとえ内的経験がいかなる権威も廃絶しうるものであるとしても、その「体験」が体験として成立し、意味を持つためには体験は「権威」にならなくてはならないと述べる。

 バタイユにとって、権威とは具体的内実をもたない。権威とは「場所」に過ぎない。「権威」とは共同体の連帯から零れざるをえない「絶対的外部」を含意している。バタイユが 「聖社会学」を掲げ、近代に出現した群衆を凝集させる技術の解析を目指した経緯を鑑みるに、これは当然の帰結でもあった。閉塞的な自足/目的の共同体を抜 け出し、共同体を成立させるために共同体から孤立せざるをえない「権威」の場を占め、その権威のもつ逆光によって共同体を照射しようとバタイユは試みたのである。自足/目的の共同性から外部を目指す思考は、バタイユにおいては崇高と超越性への接近という思考に、ブランショ-ナンシーにおいてはそうした共同体からの異分子・落伍者という視座の構築という発想に結実したのである。

 後半のテクストでは、デュラスの描く倒錯した愛の世界を巡ってブランショの 思考は展開される。此処での愛に関する省察と共同体を巡る省察は分かち難く結びついている。 愛とは共同体の命脈を繫ぐ為に紐帯の強化に供されるわけではない。愛と共同性とは等位であり、制度と幻想の遙か手前にある共同体と愛とは必然的に出逢う。 しかし、その愛も共同体の疼痛を癒やすわけでも、欠落を埋めるわけでもない。その愛も止揚されることのない差異を晒すことでしかないような「愛」である。合一しながらも絶対的に隔絶された男女で構成された共同体は、表題通り「明かしえぬ共同体」なのだ。

 「無名の大衆の現前」から、「恋人たちの世界の現前」に至るまで、ブランショの「社会」なるものを見つめる透徹とした視線は、個の総和としての社会モデルも、個の超越をうたい帰一の陶酔という共同幻想を共有する社会モデルも退ける。それらは抽象に過ぎないからだ。ブランショが思い浮かべる人々は、超越を喪い、剝き出しの生々しさに晒されたような関係である。それらはいかなる権力の聖別/組織化も拒む「二人」なのである。不可能としての非対称な他者性という主題は、E・レヴィナスに傾倒したブランショの「他者」観を表している。

    また、本書は「共同体」と「共産主義」とを並置するという目を引くような文章から始まっている。共同体・共有・コミュニケーションといった同根の言葉たちの関係には共同体の本質が溶け込んでいる。共に労働することの描き出すイメージに共同体の姿はすっぽりと填まる。

 では、「共に働くこと」が共同性にもたらした変転とは何なのだろうか。マルクス主義が歴史の構造を資本主義の自己矛盾の展開として捉え、近代を資本主義の矛盾の究極化と必然的解消の過程として把握し近代の推進を戦略として掲げ、同時に 共同体は近代によって失効してしまい、資本主義によって解体されてしまった諸価値(祖国・大地・死者・家族)の拠りどころとして、反近代主義・ファシズム運動の精神的基盤となった。この二つのイデオロギーは双方とも資本主義を否認するが、一方が近代に立脚し、他方が近代を憎悪しているという点で激しく対立 し、「共有制」と「共同体」という二つの語の断絶を決定的にした。しかし、国家という上位の観念への統合という点ではどちらのイデオロギーも同質の機能を 果たし、「全体主義」という名の下に包括される。

 ブランショは全体主義の前で、他の思想家のように医者を思わせる振る舞いで仰々しく診断を下してみせたりはしない。ブランショが青年期にシャルル・モーラスの門弟であり、ラディカルなナショナリスト・反近代主義者であったことはよく知られているが、ブランショは罪人の側に立ち、罪人として思考することを試みる。ファシズムという災厄を、喧噪を身に纏いながらひとりで歩くことしか知らないこの余りに孤独な災厄を「生きて」、そして感受することを試みる。

 ブランショのあらゆるドグマに回収されない共同体・コミュニケーションの原質を見出すという意図は果たして成功したのだろうか。

 

 

莫大な課題をわれわれに突きつけ瓦解したナチズム/ファシズム。それらの問題は決してもう人の棲まない廃墟を解体するような手つきで処理されるべきではない、どこまでも現在的な問題として対峙されるべきである。そして、ファシズムへとどう接近すべきかという問題を考えるとき、私はそれをここで取り上げたブランショのように直接的に「経験すべき」だと思うのだ。彼らを突き動かした暗い血の沸騰をわれわれも「経験」しようとしなければならないと思うのだ。アドルノブロッホFLノイマン等のファシズム論よりも、ファシズムの境界で佇んでいたブランショファシズムが生み落とされたあの時代の思考の主導者であるシュペングラー、ユンガーあるいはファシズムの渦中に投企したコラボラトゥールの作家たちからファシズムの真理に接近したいと私は思う。しかし、それは紛れもなく危険を伴う作業、ファシズムへと回収されかねない行為であるのだが。

 

 

ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』

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 冷戦構造の内破、テロリズムの拡散、憎悪の連鎖。国家・地域間の障壁が急速に失効し、市場・情報・カルチャーを中心としてグローバル化が加速する現代社会においては、技術革新と空間構造の変質によって「戦闘概念自体の融解」と「暴力の世界化」が発生する。同時多発テロとそれに呼応する米国主導の対テロ戦争、一連の中東革命といった暴力のうねりは、われわれの暴力への視角と思考とを根底から揺るがせた。しかし、この暴力の世界化という現象は現代的展開であると同時に極めて「古代的展開」であるとルネ・ジラールは述べる。彼は新著である『スキャンダルの到来を媒介する者』において、この暴力の終焉の見えない循環に対し「暴力はいまや火事、あるいは疫病の伝播を思い起こさせる(中略)暴力がとても古く、いささか神秘的な形態を取り戻したとでもいうように、壮大な神話的イメージが再び出現してくる」という分析を下す。動員体制や技術によって理論化/精緻化された近代的戦争は解体され、替わって台頭したのは疫病を彷彿とさせるスタイルで自律/増殖する個へと還された剝き出しの暴力、古代的で純粋な暴力であったというのだ。いずれにせよ、既存のフォーマッドによる現代的あるいは古代的暴力への応答は臨界に達しつつある。暴力について最も問いが発されている現代においてわれわれが必要としているのは、何よりも暴力の真理へと接近することなのだ。そして、本書『暴力と聖なるもの』で展開されているのは暴力の原初と暴力の現在性を往還するという営為、「暴力」の本質の探究とそれを基礎とした人間/社会科学建設の試みなのであり、本書は世界に氾濫する異形の暴力に対する有効な応答となり得ている。

 ジラールはアメリカを中心に活動するフランス人の思想家である。1961年に発表した『欲望の現象学』はリュシアン・ゴールドマンには評価されたものの、大勢の無視に浴した。だが、1972年に公刊された『暴力と聖なるもの』では前著『欲望の現象学』で提示した三角形的欲望の概念を用いながら、人類学・宗教学・精神分析を駆使した超学的な文明の一般理論の構築を標榜し注目された。1978年の『世の初めから隠されていたこと』では『欲望の現象学』で展開された三角形的欲望の概念・『暴力と聖なるもの』で展開された暴力論/スケープゴート論を基に神と人間との根源的関係の解明を企図した書であり、名実ともにジラールの思考の到達点であった。文芸批評である『欲望の現象学』からキリスト教の影響が色濃く反映されている『世の初めから隠されていること』に至る多彩な仕事で披瀝された三角形的欲望、スケープゴート論、キリスト教論といった独創的な理論は超域/超学的に文化と文明の原質を抉っている。日本においても、山口昌男の『歴史・祝祭・神話』にジラールの影響が窺え、また今村仁司はジラールの暴力論を敷衍した『暴力のオントロギー』を発表しているなど、ジラールの思考の余波を受けている。ジラールの肖像についての素描のあとは、いよいよ『暴力と聖なるもの』について筆をとっていきたいと思う。

 『暴力と聖なるもの』について述べる前に、まずは『欲望の現象学』で提示された三角形的欲望論-模倣(ミメーシス)的欲望論についてその概略を説明したい。なぜなら、この欲望論は『暴力と聖なるもの』の理論の骨子を構成する重要なフラグメントであり、三角形的欲望論の射程と本書の聖暴力論-スケープゴート論の射程は重なり合うものだからである。

 ジラールの命題曰く、人間の欲望は三角形的、換言すれば「模倣的」である。すなわち、欲望を持つ主体とその欲望の対象となるものの間には、いつも媒介者が存在する。われわれがあるものを欲するのは、それがそれ自体として望ましいものであるためではなく、他者がそれを欲しているからであり、他者がそれを望ましいものとして示すからである。他者の欲望を媒介として、私の欲望は対象へと結びつけられ、主体・客体・媒体の三者で構成された欲望の三角形が出現することとなる。欲望は他者の媒介、つまりは模倣(ミメーシス)という作為を通してしか成立しえず、三角形のドグマ的構造に規定されているわけである。これは、現代経済を席巻している広告の有り様を見れば納得しやすいかもしれない。われわれは物それ自体の魅力/有用性ではなく、CMに映し出されるその商品を使い充実した生活を送る俳優やタレントの姿を目にしてその商品を「欲望」する、CMに登場する「媒介者」を「模倣」することで欲望するのだ。そして、ジラールはこのような「欲望の媒介」にはふたつの形式が存在すると言う。欲望主体と欲望媒介の間の距離が遠い場合と近い場合である。近い場合をジラールは「内的媒介」と呼ぶのだが、内的媒介は欲望主体と欲望媒介との間の距離が遠い場合と違い、模倣が主体から媒介へという単一の方向だけでなく、互いの模倣(ミメーシス)が双方向にやり取りされ、このような相互媒介は時に深刻な感情の行き違いを生み、悲劇や破局が生じることもある。『欲望の現象学』においては、この「内的媒介」つまり、欲望の模倣(ミメーシス)が錯綜する中で生じる悲劇がどのように文学に影を落としているかが論じられている。これがジラールの三角形的欲望論-模倣(ミメーシス)欲望論の素描である。続いては本題であるところの『暴力と聖なるもの』における聖暴力論・スケープゴート論について説明したいと思う。

 ジラールが『暴力と聖なるもの』で展開した聖暴力論・スケープゴート論は模倣(ミメーシス)欲望論との密接な関係性の中で構築されていく。以下で暴力を基底として構想されたジラールの基礎人類学の骨子を説明したい。

 人類は「暴力の抑制」という点で、動物に比べ機能の瑕疵がある。動物が種の保存という本能によって仮に相争うことがあっても相互的な殺戮に進まないのに対し、そのような本能が備わっていない人間はみずからの暴力を制御できず、極めて些細なことでも同類を殺害しかないからだ。このように人間が動物よりも遙かに暴力的な存在である主たる理由は、人間が自発的に欲望しえず、他者の欲望に触発され、互いの欲望を模倣することでライバル関係となり、競って同一の対象を自分のものにしようとする、人間の欲望の本質的模倣性にある。この「欲望の模倣」は、欲望の衝突によって暴力が生じるやいなや「暴力の模倣」へと転化し、多方向の暴力の模倣と錯綜は暴力の感染の拡大を呼び込み、暴力の悪循環が共同体を覆い、その共同体を存亡の危機にまで追いやってしまう。

 しかし、そうした自滅的な危機を免れて奇跡的に存続しえた共同体は、原初のある時点で、模倣的・相互的暴力による危機が一触即発の臨界に達したときに、成員のひとりを全員一致で集団的に殺害・排除することによって暴力と恐怖の連鎖を断ち切り、致命的な共倒れの危機を脱した。様々な方向へと拡散する憎悪を、一方向へと収束させることで、憎悪の連鎖から脱却することに成功したいのである。また、欲望の模倣が共同体を分裂に追いやるのに対して、暴力の模倣は全員の結束を確立させる。拡散する暴力に対して、結束した絶対的暴力で打破を図るという解決策であった。こうして、どの共同体でも些細な異質性のために供儀された暴力の収束の対象であるスケープゴートは共同体の危機的な暴力・恐怖の責任者として遇され、その死後においては奇跡のように回復された平和と秩序をもたらした救世主として、事後的に聖別されることになる。であるから、「聖なるもの」は共同体の危機を招来すると同時にその危機を一挙に解決する、人間を超越した(すなわち共同体から外化された)絶対的かつ両価的な暴力を意味し、またこうした暴力をジラールは「定礎の暴力」と呼ぶ。

 あらゆる民族/共同体の神話/伝説に登場する超越的な神々・王・英雄などとして表象されるのは、危機に陥った共同体に再び平和と秩序をもたらした「定礎の暴力」のうちの「良き暴力」の方であり、それに先立つ危機を招いた暴力は「悪しき暴力」として、残忍な神・悪霊・鬼・怪物として、非人間的な存在として表象される。宗教の基礎もこの「定礎の暴力」に求められるのであり、宗教の原質は「定礎の暴力」の反復/模倣である。「悪しき暴力」の恐怖を思い起こしながら、「良き暴力」の浄化作用を祈念するというのが宗教ないし儀礼の原的な機能なのだ。

 模倣(ミメーシス)的欲望のため暴力的な人類、「供儀的危機」の集団的殺害、つまりは「定礎の暴力」による解決、そしてその「定礎の暴力」に端を発する社会・文化・宗教。「スケープゴートの殺害」に文明の原的機能の端緒を求めるジラールの理論は衝撃を与えた。しかも、ジラールの思考は神話や叙事詩の世界に留まらず、現実社会も射程に収めている。共同体の危機は今も何らかの「定礎の暴力」によって解決を図られている。大規模なものならば国家間の紛争、小規模なものならば仲間内のリンチ、犠牲と聖別のシステムは循環を続けている、そして、われわれの文化/宗教はこの大いなる暴力に端を発しており、暴力によって更新されているのだ。この循環をどう捉えるかも、どう対応していくかも、全ての問いはわれわれの前に突きつけられている。

 

 

 

 

 

ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会―情報資本主義批判』

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 状況主義を掲げ、状況派(シチュアシオニスト・インタナショナル)を率い芸術・文化・社会・政治への統一的批判を行なったギー・ドゥボールの理論的主著。大量消費社会の到来によりすべてが「商品」を基調とする価値システムに支配されるようになり、マスメディアの台頭によってすべての現実性が「見世物(スペクタクル)」のイメージの内部にしか存在を許されなくなったこの時代状況に対する先駆的なコンテスタシオン(異議申し立て)である。本書は、刊行直後に起こったパリ五月革命を予見し、学生・労働者の抵抗運動に対して鮮烈な理論を提示した書物として注目され、現在においても高度資本主義社会への根源的な批判として命脈を保ち続けている。

 221の断片的なテーゼによって構成され、資本・商品・歴史・都市・文化・イデオロギーなどを対象にしたそれぞれの短い散文はやがて現代社会を支配する「スペクタクル」という現象の原像を紡ぎ出していく。「スペクタクル」とは、見世物・ベストショット・光景など多様な意味を内包した語であるが、「スペクタクル」とは現代社会の様々な領域で展開される疎外-抽象化による支配の形式を意味している。

 資本主義の進展を辿ると、物品の価値システムが使用価値から交換価値への転化、近代的な意義での「商品」の誕生が契機として存在すると判る。今日的な価値システムは使用という具体的価値から交換という抽象的価値への飛躍、「抽象化」の過程を経て進展して来た。そして、この「抽象化」は価値システムの拡大と自律化を引き起こし、価値システムは人間の現実性から乖離し、人間を逆説的に支配するようになる。K・マルクスの物象化論(人間関係が事物、すなわち貨幣や商品間の関係として出現するという概念)やG・ルカーチ疎外論(人間から乖離した物象間の関係が人間を支配するようになるという概念)によってこのような指摘はなされてきたが、ドゥボールの議論はこれらの従来の資本主義批判から軽やかに飛翔する。

 高度資本主義の現代的展開において、「抽象化」すなわちイメージによる代理・表象のシステムが更に徹底化されたため、従来の疎外論・物象化論による資本主義の読解や批判が困難になった。現代の大量消費社会においては「表象」がその指示対象である「物象」から独立し、かつての資本主義の「商品」の流通回路とは異なる「情報」・「イメージ」のみで成立しうる流通回路が出現したのだ。ドゥボールの理論はこの新たなる表象システムに対する実践的批判を可能にする理論として構想された。本書の副題にある「情報資本主義」とは、「商品」ではなく「イメージ」で構成された価値システムを基礎とする新たな資本主義を指す。これはJ・ボードリヤールの思想圏とも重なり合う問題意識であるが、実践の価値への評価が彼らを分かつ。ポストモダン的な全方位への相対化の手斧を振るうボードリヤールに対し、ドゥボールはあくまでスペクタクルを打破しうる実践の模索を続けてゆく。

 スペクタクルとは、この表象-代理が繰り広げる支配を象徴するイメージだ。スペクタクルとは、イメージで織り上げられた自身と、それを眺める観客で構成されたシステムであり現象である。映画館の暗がりでも、劇場の喧噪でも、大道芸で賑わう大通りでもいいがおのおのの「スペクタクル」を想像して欲しい。その本質は「受動性」と「非現実性」だ。高度資本主義・大量消費社会を支配してきた抽象化のシステムがいかに人間を「疎外」するかがスペクタクル概念では説明される。

 場を支配するのはスペクタクル(見世物・光景・見せ場)であり、観客はそれを眺めることしか許されない。スペクタクルの以前では人間は受動性を強いられる。また、スペクタクルは手に汗握る映画であったり、絢爛たる歌劇であったり、思わずため息が出るような精妙な技巧を誇る大道芸であったりする。これらは非現実のイメージであり、現実性を隠蔽するための表象なのだ。

 完全な受動性を強いられ、イメージの装飾の中で支配構造の隠蔽が行なわれる。この劇場での「欺瞞」をドゥボールは高度資本主義・大量消費社会の究極的統治形態であると説く。「受動性」と「幻想性」で織りなされた「スペクタクル」の支配が全領域的に展開しているのが現代世界である。ドゥボールはこの表象ー代理の制度の、飾り立てられ、真実の有機的全体性を喪失した現代人の生について分析と、それへの抵抗の模索を試みる。

 ドゥボールは現代資本主義の本質を「受動性」と「外観」であると看破した。状況派の都市計画から思想表現としての「落書き」に至る実践は1972年のシチュアシオニスト・インタナショナルの解散によって終焉したが、現在でも大量消費社会は拡大と変容を続けている。実践に希望を見出し続けたドゥボールとシチュアシオニスト・インタナショナルの思想は現代においても価値を保ち続けている。

 

 

 

お知らせ

http://kokusaku.exblog.jp/

 私が籍を置いているサークルが今年の12月13日に講演会を開催することになりましたので、一応私のブログでも紹介したいと思います。今回招くことになったのは高崎経済大学八木秀次教授ですが、講演会の説明にあるような教育問題についての指針を知るという目的の他にも、この講演会には含意があります。

 八木教授が安倍政権において、伊藤哲夫氏・西岡力氏・中西輝政氏・島田洋一氏らと共に「五人組」と通称されたブレーンの一角であった点がそれです。解散総選挙が近づき、民主党の大敗と自民党・日本維新の会といった右派の躍進が想定される中で、当然自民党を中心とした政権の成立、安倍氏の内閣首班就任といったシミュレーションも現実味を持つでしょう――というより、専ら今後の政界地図はそうであるという論調で語られる場面も少なくありません。

 そういった情勢下で、安倍氏そして安倍政権のこれまでについて検討を行なうのは極めて有意義ではないか、と私は思います。そして、この講演会についても手前勝手ながらその吟味に資するのではないかと考えているわけです。仮想の安倍政権のシミュレーション――ある意味で、私がこの講演会に期待しているのはそうした役割なわけです。まだ掴みきれない自民党と安倍氏のビジョンを見通すことは恐らく今後の日本のビジョンを見通すことと同義なのではないでしょうか。

 「教育」という主題を持ちつつも、極めて広い射程をもつ講演会であればいいなと思います。何だかこう言うと他人事のようですが講演なさるのは八木先生なので…

 準備で私も忙しかったりしますが、たくさん来て頂けるとその苦労も報われた気持ちになれると思うので来て頂けると嬉しいです。

 さまざまな意味でアクチュアルな講演会であるわけですが、講演会の企画段階であそこまで早く解散が行なわれるとは露とも思っていませんでした…